私が講演先で話をする時には必ず言うことがあります。
まず一つは「人一人の命が奪われると悲しむ人はたくさんいる」のです。家族だけじゃなく、まわりの人たちもすごく悲しむんです」って言います。言葉で伝えるのはなかなかむずかしいから、うまく伝えにくいんですけれど、子どもを失った事で、こんなに泣きながら話をする自分がいるという姿を見てもらえるだけでいいやって思いながら話をするんです。
やっぱり知ってほしいんですよね。こんなに悲しむのだよ、一人の命にはたくさんの人が関わっているのだよってことを。
二つ目は、助けを求めてほしいということです。
親って子どもの事にすごく一生懸命になれる。でも、事件前には息子になんかすごい事をしていたかというと、ごく普通の事をしていたわけで、すごい力を持っているって思わないですよ。子どもって。でも、親って、子どものためにはすごい力を持ってるよって、こんな自分も、人前で話ができなかったんだけれども、息子の事だったら人前で話せるんやでって、とにかく、よくわからないけども力を持っているんやで、だから何か困った時には助けを求めてね、言ってよ、って親に言えなかったら、だれか周りの大人に言ってよ、って。
講演先の学校とかで子ども達には絶対してはいけないことがありますよって言う事があるんです。
一つは人を殺してはいけない。いじめもいけない。一人の子を何人もでいじめること、暴力をふるうことももちろんいけない。
もし、そういう場面を見た時には絶対に誰かに助けを求めてねっていいます。
告げ口をしたとかチクるとかいいますけどそうじゃない、そういう場面を見た時に誰かに助けを求めることは本当の勇気だよっていいます。
それで被害者も出さない、加害者も出さなくて防ぐことができるのですから。
助けを求めるのは弱い行為じゃないよって、ホントの強さって、助けを求めることだよって。
大人であれ子供であれ人を殺してはいけない。絶対してはいけないことは、ハッキリ伝えるべきだと思うんですよ。
悪い事は悪いってこともちゃんと言えないことがありますよね。
当時、加害少年に殺された、という表現は使ってはもらえなかった。
遺族によっては使ってほしくないという方もいらっしゃいますが、私の場合、少年事件で殺された、と使ってほしかった。実際、殺されたわけですから。
きれいな言葉にはせず、そのまま伝えてほしいとマスコミに言ったのです。でも、そのころの表現は「殺された」ではなく、「亡くなった」って言う表現しかしなかった。それぐらい社会ではできなかった。
それじゃあ、分からないでしょ。「亡くなった」のと「殺された」のは全然意味が違う。でも、そういうことさえ当時は言ってはいけなかったのです。
「殺す事は悪い」ってさえ言えなかったわけですよね。
だから悪い事は悪いってちゃんと示すべきだと思うんです。
人が一人死ねば、たくさんの人が悲しむ、そして人生も変わるんです。
突然命をうばわれたわけですから、まず、人が信じられなくなるんです。親も子も。
真面目に生活していた息子がある日、死んで帰ってきたわけですから。そのことがものすごい衝撃を受けるんです。人生もものすごく変わるんです。
人はなんでも自分以外のせいにしたがるんですよね、他人が悪い、社会が悪いとか、その方がラクですから。
加害者は憎いです、絶対に許せません。でもそれだけを強く思っていても、家族は良くはなりませんでした。
自分が変わらなければ。一歩踏み出さない限り、何かをしてもらおうと思っていても無理だったのです。
最後に、もうひとつ。
もし、自分の大切な家族や、大切な誰かが、わたしたちのような目にあったらどう思うか、一瞬でいいから想像してみてください。ほんの一瞬でいいんです。それでずいぶん違うと思うんです。