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「今」だから、考えたい。
加害者に対する思いについて

 最近、被害者と加害者が向き合う話を聞きます。よく聞かれるんです、どんな謝罪を求められますか?と。
 私はいつも言うのは、「謝るという行為は、被害者が求めるものではない」と思っているんです。

 それは当然あるべきものなのです。謝るってことは。最初に、加害少年がどうするかって考えることであって、それによって私の心がどう動くかってことなんです。
 いつも少年犯罪の時だけは加害者に何を求めますかと聞かれるんですけれど、それって反対ですよ、謝って当然なんですよと、言うんです。
 私の場合は、今の今まで謝罪は一切ありません。命日も、お盆も。
 振り返れば接触してきた機会は3回ほど、少年審判の前にあったんです。

 でもその後はそんな機会はありません。加害者が少年審判を有利にするためなのだなぁと、後になってわかりました。
 民事裁判を起こすまでは、会う事もなかった。
 時効ぎりぎりに起こしたのですが、加害者と会って、事実を明らかにするためにはこれしか方法がなかったのです。 その時も謝罪はなかったですよ。裁判官の前で「ごめんなさい」は言うんです。それが本音であれば、裁判の中で誠意を見せるはずなんですよね。
 でもケンカだって、主張するんです。逃げなかったから悪いんだ、とまで。ホントに悲しかったのが、殺されて、息子の人格までを変えてしまおうとするんです。ケンカが強そうで恐かったとか、でもキミが一方的だったよねと質問すると手は出してこなかったと認めるんです。でもケンカだって主張するんです。だから自分のやった事の重大さをわかっていないんです。逃げる事しか。だから誠意は一回もなかったです。

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