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「今」だから、考えたい。
「らい予防法」違憲国家賠償訴訟について

 今度の裁判の判決文の中に、これは人生被害であるというような文があるんだわ。「人間の尊厳」を取り戻す裁判やということ。
 いちばんその「人間の尊厳」を傷つけられたことは、(療養所に)入ってねぇ、2年目ぐらいの時のことやったなあ。5月か6月頃やったと思う。
 同室の、わしらより2つ上くらいの男の人が熱が出て往診を頼んで、病人のところへずっと並んで座って待っとったんやな。ほしたら先生が来る、看護婦さんと。大きなマスクして長靴はいて。天気がええ日やのに長靴はいてきよったなあ。園内を歩くときは長靴はいて。そのお医者さんと看護婦さんが、廊下まで来てあがろうとせんがね。ほんで誰か、わしよりちょっと上のもんが、「あ、そうか。」とかなんとか言うて新聞紙を持ってきて廊下から病人の枕もとまで敷いて、そしたら、すーっと長靴のまま、あがってきよった。ええ。
 忘れられへんよな。自分たちが人間でないような。
 そんなの、(らい)予防法には出てないよ。予防法には。しかし、そんな風な扱いをしよったんですわ。

 だから、‘50年に一回帰省するんやけど、そのときは入院した時と病状は全然変わってなかったけれど、なんとなく、足が震えたよ。なんかみんな世間の人たちの視線が背中につきささるような気がしたな。おまえ達はこんなところ歩いたらいかん、ていう、そんな風な視線を感じた。
 その‘50年当時は、なかなか帰省いうのは難しかったんや。一時帰省いうのは、‘52年に通達できたらしいけど、親が亡くなったとか、火事が起きたとかああいう時に帰す、というようなことが条文の中にはあるんやけどな。
 そうじゃなしに帰りたいから言うことで、ちょうど、わし、その時野球のエースやったからね、自治会の副会長かなんかしとった人がちょうど帰るんで、「一緒に帰ろか。」言うてそれでまあ、帰ることになったんよ。岡山の近くでおろされたんやけど、ほんまに足が震えたよ。
 入所するときは、人に嫌われている病気だと知らんかったから、四国の田舎やさかい、岡山言うたら都会やし、そんなような気持ちで入ってきたものな。
 「なかなか一生帰れんようなことになるかもしれん。」と誰かが言うたようにも思うけれども、わしの心にはやっぱり子どもで、まさか家へ帰れんなんてことは全然納得のとれん問題やったな。家に帰れんなんてことは誰がなんと言うたってあるはずはないと思うてたから。ねぇ。
 でも、愛生園で、お医者さんの、そんな、自分たちが人間じゃないというような態度があって、一層いしゅくしてしまって、(一時帰省で)出たときに、足が震えたんだろうと思うけれども。な。

 野球やっとった頃、外から来た人と試合が終わったら握手するわねぇ、普通は。そんな情景っていうのが頭に浮かばんのです。多分、握手しなかったんじゃないかと思う。ね。手を出せばなんとなく握手しよったと思うけどなあ。園の方針とかなんとかでそういうことになっとったんじゃないかなあと思うんですよ。
 だから、今度の裁判の中で、弁護士さんやらその支援する会の人たちに肩を抱かれ、手をとられたわね。
 (それによって)今まで、かたくなになっとった自分の気持ちがほぐれていって、後遺症を隠すとか、そういう気持ちがこうすっとなくなっていったなあ、と思うてね。それはやっぱりわし個人としては非常に大きかったんじゃないかなあ、と思ったりするわ。
 そら裁判勝ったことは、もちろんうれしいけどな。
 そういうふうなわだかまり、かたくなになっとったような気持ち、そんなものがわしの中からすっとこう、とれていったと。
 だから、前に社会復帰した時(‘70年)、後遺症のことを多発性神経炎とか言うて、うそばっかりついて、非常にまあ,心の狭い世界での生活やったけど、今回はみんな、隠さずに言うて、都島に住みたいと思って来たからね。

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