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在日三世としての誇りを持ち、自分らしく生きる
かねむらよしあきさん
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今回は、元プロ野球選手で、現在は野球解説者として活躍されている金村義明さんに、熱く語っていただきました。


― 金村さんが2年前に書かれた「在日魂」(講談社刊)が大きな反響を呼んでいますが、お書きになったきっかけは。 失業を体験−今までと違う生き方を
 金村義明さん 本を出してから人権関係の講演会の依頼が多くあり、反響の大きさに驚いています。
 3年前にプロ野球の現役を引退しました。でも、ぼくの場合は、実際のところリストラです。だから引退して、ふと気づいた時には仕事が何もないわけですね。プロ野球解説者になるにもそれだけの実績がない。そういう厳しい現実を目の当たりにした時に、「五体不満足」(講談社刊)という本を読んで、著者の乙武洋匡さんの生き方に強く共鳴、共感し、「常にプラス思考で考えていこう」と、後ろ向きになっていた自分の考えを前向きにすることができました。
 そんな時に、「五体不満足」を担当した出版社の方を紹介してもらったわけです。その方とこれまでの自分の生き方など、いろいろな話をしているうちに「自分の半生を綴ってみないか」と言われ、書く決心をしました。
 仕事もないのに毎日のように東京近郊のプロ野球全球場に勝手に通っては、選手と話をするなど野球の取材をしながら、合間に自分の半生の記憶を少しずつたどり、メモを取り、半年かかって完成させました。ぼくは在日三世であることはあまり気にせず、素直に自分の半生を書いたつもりでしたが、その出版社の方が「お前の強さ、エネルギーの源は強烈な個性を持つ母親であり、ひいては朝鮮人としての誇りだ」ということで、タイトルが「在日魂」になったのです。


 ― そのお母さんのことがずいぶん書かれていますが、金村さんにとって母親とはどんな存在なのでしょうか。負けたらあかん、人間はみんないっしょや
  ぼくにとって母はすべてですね。今でも、母のやさしさ、強さがぼくを支えてくれています。
 経済的負担の大きい私立の学校に行かせてもらったのも、ぼくの小さいころから、寝ずにメリヤス加工の内職をしていた母によるところが大きかったですね。母は地元でゴルフのキャディーをしていたのですが、さまざまな差別を受けて生きてきた世代の人です。「朝鮮人の女のくせに」とか言われて、そういうのをバネにして、働きづめで、お金を貯めて、土地を買って、家も建てた。
 そんな生き方をしてきた母ですから、ぼくが小さいときに内職している母の傍らにいると、「ヨッちゃん(金村さん)は朝鮮人やから絶対負けたらあかんで。野球でも試験でもぎりぎりの線のところにぶらさがっていたらあかんのや、(差別があるので)だれも追い越せないところまでいくように頑張らなあかん」と何度も言っていましたね。
 それに、「朝鮮人やからといって引け目を感じんでもええで、朝鮮人は根性があるんや。それに、人間はみんな一緒なんやで」と誇りを持って生きることと人権の大切さも懇々と教えられました。ですから、ぼくも日本の小学校に入学した時には、「ぼくは朝鮮人やで」と自分から周囲に言って回るほどの子どもになっていました。



― 野球を始めたのもお母さんの影響のようですね。 母子の夢「甲子園」
  そうですね、内職中の母の最大の楽しみは、春と夏の高校野球のテレビ中継でしたから、試合が終わり、校歌斉唱が始まると、負けたチームを思いやり、「かわいそうやわ」と肩を震わせ、泣いていました。
 当然、母の野球熱はぼくに伝染し、小学校の1年生のころから、兄のおさがりのグローブを手に、近所の子どもたちと泥だらけになりながら、野球ごっこに明け暮れていました。
 報徳学園が春の甲子園で優勝した時、地元の高校の選手たちが活躍する光景をテレビで見て、当時、小学校4年生のぼくはすっかり報徳のファンになって、「絶対に報徳に入って、甲子園で優勝したるんや」と堅く心に誓いました。その誓いは、息子をなんとかして甲子園に出場させたいという母の夢の実現への第一歩でもあったわけです。
 母はぼくの学費を捻出するため、新たな職探しにかけずりまわり、ある会社の社員寮の寮母として働いてくれていましたから、プロになって「寮母の仕事もうやめてええで」と言ったら、「働くの好きやから、このまま働かしてもらうわ」と結局定年まで15年間勤めあげました。そんな母の生き方が大好きです。

― 甲子園の優勝投手からドラフト1位でプロ野球選手へという誰もがあこがれる夢を実現させたわけですね。 ひとりでは生きていけない
  あこがれの甲子園で優勝して、母子の夢を実現することができました。今でもその時は、ほんとうに良き仲間に恵まれたとつくづく感じています。みんなで同じ目標に向かって、厳しい練習にも耐えていく、甲子園というところはいろんな意味で勉強になりました。ぼくの野球の原点です。
 近鉄バファローズに入団して、それまでは、甲子園の優勝投手で、「球団史上最高の契約金」と騒がれ、鳴り物入りで入団したぼくに対する風あたりは強く、いじめのようなこともあり、腹立たしいやら、悲しいやら、気が滅入ることが多かったですね。そういう現実から、夜のネオン街に逃げていたころもあります。そんな時に、優しく接してくれる先輩もいましたし、多くの知人にも助けられました。人間一人では生きていけないとつくづく感じました。
 そんなことがあって、やっと尊敬する監督、何人かのコーチに恵まれまして、がむしゃらに練習して、4年目にレギュラーに定着することができました。
 そうして、3年前に18年間の野球人生に幕を引くまでの間、球界関係者や各方面の韓国・朝鮮人の方々とさまざまな親交を結べたことは、今のぼくにとって大きな財産となっています。

ー今は、プロ野球解説を中心に、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、講演と各方面でご活躍中ですが。これからの夢は。 自分らしく、動いてつかむ
  今はおかげさまで忙しい毎日を送っていますが、最初に申し上げたように、引退直後はほんとうに仕事もなく、職を求めてカプセルホテルを転々としていましたからね。それでも、ぼくは野球人ですから「野球でメシを食う」と、1年目は手弁当で12球団のキャンプ地を全部まわりました。好きなゴルフもやめて、誰よりも先に球場に行き、選手の話を聞き、取材をする。正式な解説者ではないわけですから、球場には席もない。でも、母親ゆずりの根性で、「動いてつかむ」「レールは自分でひく」がぼくのポリシーですから、フットワークをつかって動きまわっていたら、「足で稼ぐ解説がおもしろい」と、あるテレビ局が野球解説者として、雇ってくれました。
 そのように、「動いてつかむ」、「努力すれば夢はかなう」ことを、これまでの自分の生き方で実践してきましたから、いずれはやっぱり、プロ野球の監督になりたいですね。ぼくが一番の年長者ですけれど、今も年1回、近鉄時代の仲間が集まって、「こんなチームをつくってみたい」などと熱く語り合っているんですよ。もし、監督として日本一になれたら最高でしょうね。
 ただ、引退してから、忙しく動きまわってきましたから、家族とふれあう時間がもてなかったですね。ほんとうに申しわけなく思っています。先日、やっと休みをとり、家族を旅行に連れていくことができました。ようやく、こんな時間をもてるようになったかなと実感しています。

ー最後に府民の皆さんへ、メッセージをお願いします
  やはり、どんなときでも、「前向きに考える」「前向きに生きる」ことが大切だと思います。そうすれば、自分らしさを失わない。誇りを持って自分らしく生きる、「人権」って、そういうことだと思います。

 
インタビューを終えて

  「人権」と聞くと、何かかた苦しく難しいものと思う人が多いかもしれません。しかし、人権の基本は、一人ひとりが個性や能力をいかして「自分らしく生きる」ことです。
 「自分らしく輝いて生きる」−そのことは、一人ではできません。金村さんは、“今まで「自分らしく」生きてこられたのも、母の教え、家族の愛、支えがあったからだと心から感謝しています”と、語っておられました。さまざまな人とふれあって、世界を広げる、そして、そのためにも、まず自分らしさを肯定する、そんな気持ちこそが大切だと感じました。
  (2002年9月発行 そうぞう)
金村 義明さん  本名:キム・ウィミョン

1981年報徳学園のエースで4番として活躍し、夏の甲子園大会で全国優勝。その後、ドラフト会議で1位指名を受け、近鉄バッファローズに入団。中日ドラゴンズ、西武ライオンズと移籍後、1999年引退。

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