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リレーエッセイ
塩谷 幸子(しおたに・さちこ)さん 第40回
もてる力を持ち寄ってつくる「ぬくもりのまち」


塩谷 幸子(しおたに・さちこ)さん

向野まちづくり協議会 代表

「子どもたちが胸を張れるように」という願い

今、羽曳野市の向野地域には年間1万人前後の人がフィールドワークやと畜場(ミートセンター)の見学に訪れます。毎年11月に行う食文化のお祭り「ミートミートフェア」には5、6千人もの人が来られます。これほど多くの人が向野へ足を運んでくださるというのはうれしい限りです。
 もちろん、最初からこうだったわけではありません。フィールドワークを始めたのは、約20年前、小学校の先生からの相談がきっかけでした。「親がと畜場で働いているとか肉屋をしているという家の子は、親の仕事を言いたがらない。子どもたちが胸を張って言える授業をしたいから協力してもらえないだろうか」と言われたのです。わたしは「子どもたちが言いたくないのではなく、言えない雰囲気が学校のなかにあるんじゃないでしょうか。わたしたちも協力はするけれど、先生方も子どもたちの思いを受け入れる学校づくりをしてください」と答えました。そうして教材づくりが始まったのです。
 最初につくった教材は、地域の先輩方から「的外れだ」という指摘を受けました。と畜場での労働の厳しさや誇りを強調した内容だったのですが、「労働の厳しさや誇りは、すべての仕事にいえること。どこにもない部分に目を向けないとあかん」と言われるのです。
 どこにもない部分とは、と畜場の仕事そのものに対する見方です。と畜の仕事は「牛を殺す」ことだと言われてきました。けれども、と畜場は牛を解体し「お肉」として加工する工場です。殺すのと解体するのとでは目的が違います。そこをしっかりと説明しなければならないということで、まずはわたし自身をと畜場の見学に連れていってもらいました。

傷ひとつつけない包丁技に思わず涙

祖母の代から肉の卸をしていましたので、肉を触ったことはありましたが、と畜場へ行ったのは初めてでした。牛の開かれたお腹から大きな胃袋がそのまま出てくるのを見て、わたしは思わず涙しました。「怖いと思うなら見なければよかったのに!」と先輩に叱られましたが、怖くて涙が出たのではないのです。人間のようにレントゲン撮影もせず、それぞれ体格も違うのに、一瞬の勘だけで包丁を操り、傷ひとつつけずに内臓を取り出す技術に感動したのです。
 「この技をできるだけ多くの人に知ってもらおう。“牛殺し”と言われ、差別されてきたけれど、牛を殺すのではないということを発信していこう」と、と畜場の見学を計画しました。
 と畜場で働く人は「興味本位で見てほしくない」「見る人の意識によっては差別意識が強まるのでは」と猛反対でした。そうした不安や心配のひとつひとつに話し合いをもったうえで始めた見学でしたが、今では小学生からおとなまで年間70〜80組を受け入れています。  

逃げ続けた自分を温かく迎えてくれた人たち

 私自身、今でこそ胸を張って部落解放運動に参加していますが、かつては「部落」からひたすら逃げていました。親からは「部落に住んでいることは絶対に人に言ってはいけない」と言われ続けましたし、実際に部落に住んでいることを知った同級生からの差別を受けたこともあります。くやしい体験ばかりなので、隠すことしか考えられませんでした。
 それでも夫から部落差別発言を受けたのがきっかけで離婚するなど「部落」から逃れ切ることはできませんでした。そういうなかで、部落の青年たちから義務教育における教科書無償などを勝ち取ってきた部落解放運動を教えてもらったのです。
 実は運動には反感をもっていました。「部落、部落というから、どんなに自分ががんばって隠してもばれるのだ」と考えていたのです。けれど地域で差別と闘っている人たちと触れ合ううちに心から共感するようになりました。
 運動のなかで出会った現在の夫と結婚し、娘が生まれました。「差別に立ち向かい、がんばって生きてゆく親子になりたい。そして子どもの頃から部落を隠すために自分のふるさとを差別してきたという重い荷物を下ろしたい」と思い、向野へ帰る決意をしました。
 子どもたちが熱を出した時、集会や会議に出なければならないわたしに「見ておいてあげるから、行っておいで」と背中を押してくれたのは地域のおばちゃんたちでした。「あんたを支えるのが、運動を支えることや」と言いながら。
 自分の見方や考え方が変わったことによって、向野の人たちがどれほど温かい人たちかを改めて教えてもらいました。

人と人との人間関係が支える、さまざまな取り組み

 わたしたちは、周辺とのつながりを大事にすることを第一に考えてきました。小中学校のPTA活動のなかで人権啓発委員会を立ち上げましたが、「差別とは」という話ではなく、お菓子を持ち寄ったりしながら「いい学校、悪い学校って誰が決めるのん?」というような身近な話題を話し合いました。個人として民生委員や青少年指導員など公的な役割も引き受け、部落外の人たちとの人間関係、信頼関係をつくってきました。
 94年8月に「『福祉と人権』の街・向野をつくる会」を結成、2003年10月、NPO法人「サポートネットワークぬくもり」として新たにスタート、高齢者への配食サービスや入浴介助などを行っています。こうした取り組みを始めると周辺地域の人たちがボランティアで参加してくれます。なかでも「いろんな人に向野に来てもらおう」と始めたミートミートフェアには、老人会や農協、フィールドワークを受け入れている大学など、たくさんの人が手伝いに来てくれます。昨年はさらに同和対策事業で建てられた埴生診療所を羽曳野市から買い取りました。駐車場を半分使って保育園を建て、病後児保育や、保育園に通っていない子どもたちの「つどいの広場」も始めました。
 これらはもちろん、誰でも利用できます。うれしいことに羽曳野市内だけでなく近隣の市にお住まいの人の利用が多く、ボランティアで助けてもらったぶんをサービスでお返しするという「相互扶助」が根付いてきているのを感じています。
 自主財源での運営は大変ですが、周辺地域の人たちと助け合い、知恵を出し合いながら、「ぬくもりのまち・向野」をつくっていきます。

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