人権インタビュー

いじめを生み出す制度や環境の改革を
内藤朝雄(ないとう あさお)さん
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閉鎖的な環境でいじめはエスカレートする
 内藤朝雄(ないとう あさお)さんの写真

個別のいじめは十人十色で、同じいじめはふたつとありません。けれども、どんな制度や仕組みのなかで、どれくらいいじめが蔓延しエスカレートするかはたくさんの事例を分析、研究するなかでわかってきました。
私が一番強調したいのは、学校にせよ職場にせよ、人を狭い場所に閉じこめて強制的にべたべたさせることが、いかにいじめの蔓延やエスカレートにつながっているかということです。学校では、朝から夕方まで 30人から40人の人と強制的に一緒に過ごし、しかも教員に従順であることや「友だちごっこ」を強いられます。教員(上司)は大きな権限をもち、生徒(部下)の運命を簡単に左右することができます。また、「みんなと仲よくすること」がルールとして最優先されます。
特に学校に関しては、「法を入れてはならず、個人主義が許されない、神聖なる教育の共同体」という社会通念が蔓延しているため、暴力や誹謗中傷など市民社会では許されないことも学校内では許されてしまいます。たとえば、「場の空気が読めない」「みんなのノリから浮き上がっている」と思われた人は、殴られたり無視されたりしても仕方ない、といった“仲間うちの論理”がまかり通ってしまいます。

市民社会のルールより優先される“仲間うちの論理”

“仲間うちの論理”がまかり通る世界では、市民社会であれば許されないようなひどいこともやりたい放題です。それが「いじめ」です。
私は、いじめを“暴力系”と“コミュニケーション操作系”のふたつに分けています。殴る、蹴るといった暴力系のいじめは悲惨です。さらに、閉鎖的な空間で強制的に「みんな」とべたべたさせられて生活していると、自由な生活環境ではたいしたダメージにならないはずの無視や陰口、仲間はずれといった“コミュニケーション操作系”のいじめも、ひどく精神を蝕み、自己を破壊する効果をもってしまいます。「みんなと仲よくすること」を何より優先されるなかで、仲間として認めてもらうために、自分の心を深いところから変質させて、集団に合わせなくてはならないからです。
ほかの人たちが仲よくじゃれあっているなかで一人ポツンと置かれるというのは、まるで自分が亡霊になったような耐えがたい孤独です。その苦しさから逃れるためには、迫害してくる悪意の「友だち」に、「性格を直すから仲よくしてください」と懇願しなければなりません。自分の心を放棄してへつらうか、“亡霊”であり続けるか。最悪の二者択一です。いずれにしても、うつ病や摂食障害、最悪の場合は自殺という結果を招くことになります。

いじめは心がけや思いやりの問題ではない

市民社会とは、身分的な関係ではなく、お互いが自立した個人であるという“虚構”を前提として人と人とが交わる空間のことです。「それは虚構ではない」と言う人がいるかもしれませんが、実は人間社会はありとあらゆる虚構といえるもので成り立っている社会なのです。
お金を例に考えてみましょう。本当は、お金はただの金属や紙切れです。けれどもその金属や紙切れに1円10円、あるいは1万円という価値があるという虚構を人間が作り出し、みんなで共有することで経済が成り立っているわけです。「なんだ、ただの紙切れじゃないか」とみんなが言い出せば、経済はめちゃくちゃになってしまいます。
「すべての人が等しく人権をもっている」とする市民社会の前提も同じです。大切なのは、人権が虚構かどうかではなく、どんな虚構が人々の間に流通するか、なのです。「強いものが弱いものを支配するのは当たり前だ」という虚構ではなく、「私たちはお互い対等・平等な個人であり、人格は尊厳のあるものだ」という虚構で社会をまわしていかなければ、悲惨な状態が蔓延してしまいます。
いじめとは、相手がつらいと感じることをわざわざやるものですから、心がけや思いやりを訴えても決して解決しません。大事なのは、「どんなに気が合わない人でも、暴力をふるったり、仲間はずれをしくんだりしてはいけない」というルールを徹底することです。そしてルールを破った人は、立場や年齢に関係なくペナルティを受けなければなりません。市民社会では、人の物を盗んだり、わざと壊したりすれば罪になります。他人をわざと痛めつけるいじめも「罪」としてルールを明確にし、「仲間うちの論理」を飛び越えて対応する必要があります。
一方、いじめによって自分の心が壊されないためには、学校や会社以外にも自分の居場所をもつことです。塾、クラブチーム、趣味のサークルなど、好きなことを楽しみ、一緒にいて楽しい人と会う時間を増やすのです。

人間は環境によって“モード”が変わる

ところで、人の心を破壊するようないじめをする人は、どれほど邪悪な人なのでしょうか。実は、学校や会社で陰湿ないじめをする人も、学校や会社から離れればごく普通の常識的な人であることがほとんどなのです。たとえば中学時代に残酷ないじめをしていた人が、後になって「なんであんなバカなことをしていたんだろう」と自分でも不思議な気持ちになったりします。いじめられて真剣に自殺を考えていた人も「なぜ、あんなくだらない人間関係のために思いつめたのか、自分でもよくわからない」ということがあります。
これは、その人がおかしいのではなく、現実感覚の“モード”が変わったのです。こうしたモード変換は、過去にもありました。たとえば、戦時中に隣組が強制されるようになると、それまでニコニコと愛想のよかった近所のおじさんが突然、いばり散らすようになったという実話があります。戦争が終わって隣組が解消されると、また腰の低いおじさんに戻りました。個人差もありますが、多くの人は環境によって簡単にモードが変わり、時には残酷なことも平気でやれるようになるのです。

あらゆる領域で、隣人が豹変しない環境を整える

環境によって別人のように変わることを人間の弱さや醜さととらえる人もいますが、私はむしろそこに希望を感じます。どんな制度・政策的な環境条件の下で人が狼に豹変するのか、その心理―社会的なメカニズムを研究し、適切な制度・政策的な環境条件へと変更すればいいのです。つまり、環境によって豹変するという人間の特性を逆手にとり、隣人が狼にならずにすむ環境を整えればいいわけです。 こうした政策を学校や地域社会、職場などあらゆる領域で実施することによって、多くの人々を「人間が人間にとって狼になる」状況から救うことができます。
たとえば学校では、箱のように仕切られた教室で、一方的に決められたクラスメートと終日顔をつき合わせていなければならないという学級制度を廃止すればいいのです。授業ごとに教室やメンバーが変わる単位制高校や大学のような個人カリキュラム制にすれば、コミュニケーション操作系のいじめは激減します。つきあう相手を大勢のなかから選ぶことができれば、自分を壊そうとする人を拒否し、その人から離れることができるからです。
いじめを憂えるなら、こうした抜本的な改革を行うしかありません。そしてそれは決して非現実的な夢物語ではなく、選挙や社会運動によって本気で教育(労働)政策を変えようとすれば実現します。

 
  
内藤朝雄(ないとう あさお)さん
明治大学文学部助教授

1962年東京生まれ。愛知県立東郷高校を中退。山形大学、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。現在、明治大学文学部助教授。専攻は社会学。著書に「いじめの社会理論」(柏書房)、「いじめと現代社会」(双風社)など。
 
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内藤朝雄(ないとう あさお)さんのプロフィール