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きょうだいのこと |
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姉は‘46年の盆に(療養所から出て)帰っていくんじゃわ。だから、1年と10ヶ月くらい一緒にいたんかな。
今度の裁判のことがあって「姉さんもお金がもらえるんやで。」てわし言うたんじゃわ、そしたら「知っちょる。」て言いよる。「知っちょるけどうちは病気になったことも島におったことも全部隠して結婚しとるし、な。ようもらわんわ。」って。
そんでわしちょっと、弁護士さんに、こんな姉がおるんやけど、なんとかわからんけどもらえる方法はないかな、言うて岡山の弁護士さんにたずねたら、一回いっしょに来い、言いよってん。それで姉にいっしょに来てもらって、岡山の弁護士さんとこ行ったら方法はあって、姉ももらえるようになったんだけどな。
ほんでその時に姉が言うたよね、「おまえもう、ふるさとに帰ってきたらあかんで。」というのはな、もうふるさとでは、わしのことはみんな死んどると思うとる、と。死んどるいうて葬式したわけじゃないけど、姉も表現として死んどる言うたんじゃと思うわ。
50年ももうふるさとになんも音沙汰もなしに過ごしとるから、(川島さんの消息を)悪いから、よう聞かんでおるのとちゃうかなあ、と思うわな。わしの身内の中で1人だけ一番上の姉の−死んでおらんのやで−2番目の娘が6つぐらい下の子がおるんじゃわ。東京へ行っとって、故郷へ帰ってきて、その姉のところによるわけよ、で、わしのこと聞く言うたな、それだけじゃ言うたわ。(川島さんの消息を)聞くのは。
まあま、きょうだいとかそんなのは知っとるし、きょうだいにはあまり電話とかせんけれども向こうからかけてくる。
ふるさとの方に3人姉がおるんじゃわ。1番2番と亡くなって、3、4、そのハンセン病にかかった5人の姉がおった。
その姉達に一回高知で会うた。一晩。高知県の職員の人でそういうことを色々世話してくれる人がおってね、ボランティアみたいな人がおって、その人に頼んで、宿をちょっととって、その人も加えて食事したりして気安くしたんやけど。
だけど、愛生園におった姉やからこそ「帰ってくるな。」って言えるんでな。他のきょうだいはなかなかそんなことは言えんと思うよ。(姉は療養所から)帰っていって、嫁さんに行って子どもつくったけど、やっぱりそら言えに言えん苦労があるんじゃないかと思うけど。
わしの姉は18ぐらいで帰ってきたんやけど、まあ少女舎のお姉さん役やな、結局。小っさい者の洗濯やらほころびやら看護婦さんみたいなこととかやりよったわな。
そやからなんかのときに、もうあの時のことはもう、思い出したくもない、言うてたなあ。だから、そらほんまにつらかったんじゃないかなあ。健康であれば健康であるほど、仕事しなきゃいかん。
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