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都島に移ってきた時のこと、地域の受入れ態勢について |
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 わたしをここ(大阪市都島区)へ住まうようにしてくれたのは、らい予防法違憲国家賠償訴訟の時の弁護士やったわけやね。
この間亡くなった千葉さん(川島さんと同じく国家賠償訴訟原告)と私の二人が中心になって、住宅とか色々そんな問題についてつめていった。年度末やったね、3月くらいやったから。それでまあ、いちばん欲しいのは住宅だったわけよ。
ところが、そういった住宅言うのは規制があって、色んな人が待ってんのに、あんたがたを先頭にもってくるわけにはいかんというようなことで、結局、なんやかんや言うたけど、すぐには難しいいうことで。
ところが、5月11日には判決一周年を迎えるようになっとったわけでしょ、弁護士さんとしてみたら社会的にアピールしたいということで、1周年の記念日までには、大阪に来てもらいたい、という風なこともあってね。
ま、わたしとしては自治会の役員なんかもやっとったし、非常に忙しかった。くるくる頭がまわるほど忙しかったですな。
大阪府の事務方との話し合いが進展をみず、新年度になってからという話になりかけたんだけど、それじゃいかんなということで、府との話し合いを打ち切り、千葉さんの方には別の弁護士さん、わたしの場合は吉田弁護士が担当するということでついてもらって、二人で各々区役所の方へあいさつに行って。
その時に弁護士も色々言うてくれたんや。
「川島さんが今度ここへ世話になることになって、私が後見人のようなつもりでおりますんで、面倒をおかけしますけど、よろしく頼んます。」て言うてくれて、それまで肩に力が入っとったけれど、その一言ですっと肩の荷がおりるような気がして、楽な気持ちになったんですよ。
この家も、この吉田弁護士がちょっと関わりのある不動産屋さんの紹介で、この住宅を手に入れて、‘00年の4月25日に来たんだわ。
ほんで、わしの感じられるところでは、大阪府知事でしょ、ほんでから都島の区長でしょ、職員、それらの人たちが、非常にようしてくれた。
わたしがまだここに住む前に4月11日くらいやったかね、区役所へ行ったんやけど、その後こちらに何回か、部屋のそうじとかそういうことで足を運びよった。
その時に、区役所の人権課の課長さんが、町内の役員さん、民生委員さんとか人権擁護委員さんとかそういう人たちを、ここへ呼んで、わしが話する機会を与えてくれて。4丁目の会長さんもおるし、それから中野町全体の連合会長さんか、そういう人もおる、そんな人たちがよう来てここで話をさしてもらったりしたので、割とスムースにね、来れた。
それから、この近くに喫茶店、晩はスナックというところがあるんじゃわ。
荷物引き取りとかそんなん来よった時に、用を足しとうなって、そやけどまだ水道止まってたんで、それで駅まで行かなしゃあないんかなー、と思って行きよったら、喫茶、と書いとったから、ちょうど昼飯時やったし、そこへ入ってお便所借りよかなー思て。
ほいで昼をよばれてそれで、「わし、ここの近くに引っ越してくることになったんやー。」言うて。「晩にはちょっと歌でも歌わしてもらいに来ますよー。」とか言って何回か行きよったん。
そいたら、そこのママさんが言うにはな、警察の人がそのスナックへちょいちょい行くらしいんやけど、その警察の人が、「川島さんいう人がこの辺りに来とるはずや。なんかあったら、偏見とか差別とかそういうふうなことがあったら、警察の方へ知らしてくれ。」って言ったらしいわ。そんなことママさんから聞いてね、ありゃりゃ、こりゃ警察に守られてたら悪いこともできんかなあと思ったりしよったけどね。
ま、そんなことで、何回か行った後、いっしょに来た千葉さんやら弁護士さんやら、支援の人たちの会合があってね、その帰りに寄ったんじゃ。みんなで。
それでみんなが帰った後で、こりゃあやっぱり、ちょいちょい来るし、なんにも言わんいうのも悪いような気がして、実はこうこうでここへ社会復帰してきたんじゃ言うて。店の人は、ママさんともうひとりおって、それからお客さんとして中年の男の人もひとりおったかな。
あー、そうやったか、言うて。ママさんはな、その時、一緒にいた人がテレビにうつっとったんで見たことはあると言いよったよ。そんでそのお客さんも、「大変なことやった。またいっしょにお会いできたら…。」とかなんとか言いよったけどね。
そんなことで、割とうちとけとったんやけど。最近はあんまり行かんけど。また来てくれー、いうてこの前、言いよった。 |
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