...令和5(2023)年度 第1回...
地域の人々とのふれあいを大切に、
外国にルーツある住民へのサポートまで
誰もが安心してつながる居場所づくりを
河部理香子さん
(特定非営利活動法人ほしぞら&ふれあいハウス鳴滝)
スタートは高齢者の居場所づくりと配食事業
地域で居場所づくりの取組を始めたのは、2005年からでした。当時から、高齢者や独居の方が多くなり、孤立や孤独死の問題がありました。また地域の人同士のつながりが少なくなっている状況もあり、昔のように「お互いさま」の気持ちでつながる地域を作ろうと始めたのが、居場所づくりの取組でした。しかし、何から始めていけばよいのか、ノウハウもなければ、その思いをどう取組につなげればよいのか、何をすればよいのかわからない状況でした。そういった中、当時、大阪府福祉推進人権センター(ヒューマインド)のサポートを受けながら、高齢者の方の居場所づくりを始めたのが当団体の取組の始まりでした。
現在、サロン「ふれあい喫茶縁」を開いていますが、そこでは主に地域の高齢者が集って食事をしたりお茶をしたりと一日を楽しく過ごされています。ある日、いつも来られる方が来ないことがありました。連絡をすると体調を悪くされて、家で閉じこもっていることがわかったのです。さらに「前日から何も食べていない」ということもわかりました。そこで食事を自宅に届けることになったのですが、改めて地域をみると、自宅で食事を作ることや買い物へ行くことすら大変な方が多い状況が見えてきました。そこで、地域で困っている人たちに食事を届けることで、サポートしていこうと始めたのが手づくり弁当宅配「つなぐ」の取組でした。
小学校の地域学習で、当団体の取組を見学していただく機会がありました。そこで子どもたちと高齢者が交流する中、高齢者との関わりが難しい子どもがいたり、自分の気持ちや考えをうまく伝えることが難しい子どもたちがいました。また先生からも、生活が苦しい子どもたちがいる実態などのお話をお聞きしました。
そのような状況もわかり、家や学校以外で子どもたちが安心できるような場所を作りたいとの思いで、子どもの居場所づくりの取組が進んでいきました。また小学校が終わってから、いつでも子どもが来られるように新たにだがし屋さんコーナーを設けました。ここで子どもたちと話す中で、学習することや、いろいろな経験・体験をすることがとても大変な子どもがいることがわかりました。例えば、ひとり親家庭、学習塾に行くことが困難な子どもたちなどです。
また保護者や学校からも、子どもの学習面が心配だという声が聞かれました。さらに「明日からテストやけど勉強わかれへん」「高校に行きたいけど、行かれへんかも」「親に負担かけるから私立に行かれへん、公立に行きたい」と子どもからの声もあり、学習支援の取組が始まりました。
スペイン語を話す男の子との出会い
居場所には、朝から夕方までは高齢者の方が集い、夕方から夜は子どもたちが集います。参加者に、外国にルーツのあるひとり親家庭の子どもがいました。この地域は昔から紡績が盛んで外国にルーツのある人も多く働きにこられていました。当時は、南米などのスペイン語圏の方たちが多くおられました。定住されていく中でその子どもたちは、外国にルーツはあるけれど、母国に行ったことのない子どもが多くなってきました。今は、就労の関係で中国やインドネシア、ルーマニアの方もおられます。
あるとき、地域の小学校からの依頼で、スペイン語を日常的に話す男の子と出会う機会がありました。住んではいるけれど、地域で孤立しているというのが最初の印象でした。男の子を含めた小学生2人とお父さん、お父さんのお母さん(おばあさん)でお住まいで、おばあさんは介護が必要な状況にもかかわらず、日本語を話せないため外に一歩も出られない状況でした。そこで、とにかく何か困った時に相談してもらえるような関係を作りたいと、お弁当を届けるという手段でその家庭と関わり、距離を縮めていく中で、家庭の状況がみえてきました。
男の子のおばあさんは、介護保険制度の相談すらできておらず、その結果、要介護状態であるにもかかわらず自宅介護を余儀なくされています。介護するのは、主にお父さんですが、子どもたちも手伝うなど、まさにヤングケアラーの状態です。早いうちに、ご家族の負担や気持ちが軽くなるような働きかけを地域でしなければならないと思っています。
もともと地域の介護問題が気になっていたこともあり、現在、助成金を活かして、訪問介護事業の準備を進めています。そして将来は、子どもから高齢者まで、いろんな立場の方たちがそれぞれの用途に対応できるような施設や居場所を作りたいと思っています。男の子のおばあさんがその居場所に来てくれて、おばあさんが使う外国語を話せるスタッフが働いてくれているというような場所をめざしています。
出会い、つながる。受け止めてもらうまで諦めない。
最初にその家庭に訪問したとき、男の子のお父さんは険しい顔で「誰だ?」と疑っているような感じでした。しかし、訪問を続けた結果、今ではどこで会っても笑顔を見せてくれるようになり、嬉しく思っています。積み重ねが大事だと思うことがたくさんあります。
そして、まずは出会うことを一番大切にしています。出会ったらそこで終わりではなくてつながる。時間はかかりますが、安心してもらえて、私たちのことを受け止めてもらえたら、何かあったときは必ず声をかけてくれますので、そこまでは絶対に諦めません。
コロナ禍での課題もありました。個人給付の申請手続きの書類など行政から届けられる文書は、外国にルーツのある人にとっては理解することが難しい日本語で書かれていました。このように、必要な情報が十分に届いてないということを知る中で、もっと地域の人たちに、私たちの存在を知ってもらわないといけないと思いました。
また辛いできごとも起こりました。新型コロナウイルス感染症は外国からきた病気という情報だけを敏感にとらえて、近所で暮らしている外国にルーツのある人に対して、「あの人らが来たからこんなことになったんちゃうか」などの発言がありました。無理解ゆえにですが、いつも接している地域の方がこういうことを思ってしまうことがわかり、とても辛かったです。この経験から「こういった状況は地域に住む外国にルーツのある人との出会いがなくて、つながっていないからでは?」「お互いのことを知らずに、大切に思えるような存在になれていないからかも知れない」という思いが強くなりました。
子どもたちとのかかわりの中から生まれた取り組み
子どもたちとの出会いは、「学習支援いっぽ」と「ほしぞらただいま食堂」の取組にもつながっています。
市内には、家庭環境が厳しかったり、不登校の子どもがいますが、子どもたちが通う場所は、学校か市内で唯一のフリースクールしか選択肢がありません。そういった子どもたちにとって、居心地がよく、通いたいと思える場所がたくさんあり、選べることができれば子どもたちはもっと外に出ることができると思っています。その場所の一つになればと思っています。
「学習支援いっぽ」では、外国にルーツのある子どもの家庭学習の厳しさに気づいたことがきっかけで、学校と連携した学習サポートにつながっています。小学生の時は、日本語教室や独自の教材でカバーできることが多いのですが、中学生になるとかなり学習面で厳しくなることがわかりました。また家では母国語で話すため、日常に日本語を使うことが少ない子もいることも知りました。
友だちと話すときや学校では日本語を使いますが、それ以外ではあまり日本語で話すことがないため、分からない言葉が出てきたりして困ることもわかりました。例えば、以前にお腹が痛くなった子が病院で受診したそうです。病院の先生が「どんな痛み?チクチク?ズキズキ?ギューッ?」という表現をされたそうですが、意味が分からず答えられなかったと聞きました。それから病院に行くのが嫌になったということも話してくれました。
これまで、子どもたちとのコミュニケーションの際、擬音交じりの言葉を使っていましたが、ふと、あの時の言葉はわかっていたのかな?と思い返します。今では「今の言葉って、こう表現したつもりだけど、わかった?」「あれはこういう意味で言ったんだよ」と伝えます。取組の中での経験を、丁寧に確認して行くことが必要だと実感しています。
また「ほしぞらただいま食堂」は、国籍も年齢も関係なく、誰でも集えます。男の子のお父さんは、子育てや仕事で、食事を用意することは大変な状況でしたが、ここに通うようになってからは、家事の負担を減らすことができて、子どもとのコミュニケーショの時間も取れるようになりました。ここで地域の人と顔見知りになって、関係がつくれたらいいなと思っています。
地域の誰もがふれあい、輝ける場所に
子どもたちに、いつも「ほしぞら&ふれあいハウス鳴滝」の名前の由来を伝えています。団体の立ち上げ時に集まったメンバーは地域のことを大切に思っている方ばかりでした。団体名を決める時、「地名」や「ふれあい」を入れて欲しいとの声がある中、メンバーの一人から「ほしぞら」を入れてほしいと希望がありました。その方は介護が必要でしたが、積極的にまちづくりに参加し、人の役に立ちたいという思いが強い方でした。主に昼間に活動するのに、なぜ「ほしぞら」なのかと聞くと、こう言われたのです。
「自分は助けてもらうことが多くて、できることは少ない。でも、ここでは自分はもっと頑張れるし、できることもたくさんある。だから俺は星空、夜空に輝く星のように最後まで輝きたい。ここは誰もが輝ける場所。だから「ほしぞら」にして欲しい」
その言葉にメンバーは納得し、さらにみんなの想いも入れた「ほしぞら&ふれあいハウス鳴滝」になりました。すでに、そのメンバーは亡くなられたのですが、今でもこの名前をつぶやく時には「輝ける場所なんだ」と話していたその顔が、いつも目に浮かびます。これからも地域の誰もがふれあい、輝ける場所になれるように、取り組んでいきたいと思っています。
(2023年6月掲載)