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...令和4(2022)年度 第2回...

~平和学から考える~

「平和」な社会に向けて私たちができること


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奥本京子さん(大阪女学院大学 教授)

 

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出会いと経験の積み重ねが、平和の希望や種に

 私は新型コロナ感染拡大の前、夏休みになると2週間程度、東北アジア各地の平和・紛争・暴力の歴史を学べる場所で平和の実践的なトレーニングを主催してきました(NARPI/東北アジア地域平和構築インスティテュート)。ここでは、東北アジアの様々な世代の人々が集まり、相互によく知り合います。プログラムの一つには「遠足」があり、広島で開催した際には、今はうさぎの島として知られる大久野島にも訪れました。そこはかつて毒ガスを製造していた島で、戦時中には軍事機密として地図から消えていたそうです。上海からの参加者が静かに涙を流していたのでその理由を聞くと、中国では日本軍が廃棄した毒ガスが戦後になっても被害者を生み、実際にその被害者を知っていたからとのことでした。

 また南京で開催した際は、記念館を訪れる前夜のディスカッションで、南京大学の学生が「明日、記念館に行ったとき、どうすれば日本人の友人を守れるか」と提起したことに驚きました。「1937年に南京で起こったことがどう描かれるかによっては、日本人が傷つくかもしれない」と心配、そしてケアしてくれたのです。

 このように実際に言葉を語り交わし、相手のことを考える経験が積み重なることで、いろんな暴力に囲まれていたところに、平和の希望や種みたいなものが育まれます。平和について考え、取り組む人が増え、暴力を平和に転換していく。そこには「コンフリクト」をどう捉えるかが重要だと私は考えます。


※コンフリクト...対立、紛争、葛藤、摩擦、衝突という意味


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二元論におちいらず、自分に問い直す~戦争を生み出す構造や文化とは~

 戦争に至るまでには複雑に絡んだ複数の要因がありますが、私たちは、善対悪、敵対味方のようなシンプルで分かりやすい二元論的な考え方に逃げ込んでしまいがちです。自分がより近く感じる存在を英雄化し、そうでない存在を邪悪化してしまいがちです。

 平和学上の「暴力」には、見える暴力(直接的暴力)とそうでない暴力(構造的暴力や差別を支え、正当化することにつながる価値観等の文化的暴力)があります。そしてそれぞれの暴力が相互に支え合っています。戦争は直接的暴力ですが、それは構造的暴力である軍事システムにより可能になります。そのとき、文化的暴力は軍事や戦争行為を正当化します。

 戦争は「明日からやりましょう」といって始まるものではなく、何年も何十年もかけて準備されます。兵器を開発し、兵士を訓練し、指揮系統が整備され、資金を準備するなど全てのものが整ってから、ようやく起こるものです。

 戦争を生み出す意識、構造や文化を検証し、批判することはとても大事です。それらを正当化する私たちの発想や内在する構造的・文化的暴力を自覚し、問い直すことが必要だと私は考えます。

 

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平和とは待つものではなく、創り続けるもの

 暴力と同じように、平和学上の「平和」にも「直接的平和」「構造的平和」「文化的平和」があります。「積極的平和」と「消極的平和」という分け方をする場合もありますが、私は「積極的平和」の創造に関心を持っています。

 一般的に「平和」と聞くと、「祈るもの」という捉え方をすることが多くあります。それだと、平和とはいつかどこからかやって来るもので、今の自分とはつながっていないような感じもします。シェイクスピアの作品には「peace!」というセリフがよく出てきますが、これは「誰も喋らず行動せず、静かな状態」を指します。歴史的にも伝統的にも、「平和」という言葉はそのような意味(消極的平和)で使われてきました。

 一方、積極的平和のうち、私はさまざまな種類のアートを通じて、平和創造のワークショップを行うという「芸術アプローチ」にも取り組んでいます。静かに平和を祈って待つのではなく、ダイナミックピース(動態的平和)を創っていくいことの方が楽しく、おもしろいからです。

 平和とはプロセスそのものであり、今日も明日も明後日も、とにかくずっと創り続けるということが平和ではないかと私は考えています。このプロセスに欠かせないのが「コンフリクト」理解です。

 

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平和にむけて、コンフリクトとともに歩む

 コンフリクトは、個人レベルから社会・国際的レベルで起こるものもありますが、あくまでも武力・暴力紛争とは別で、もっと手前の状態です。ここから戦争になる場合もありますが、扱いようによっては、とても良いチャンスにもなります。コンフリクトはエネルギーに満ちているものなので、上手に平和の創造につなげていくこともできると考えます。

 コンフリクトは毎日起こる、自然なことです。それと正面から向き合うことで、うまく転換・変容していくことができます。その作業の瞬間にも、平和を創るということが起こっているのではないかと考えます。平和とは、コンフリクトと丁寧に歩み、作業し、前に進んでいくことだと考えています。

 一方、戦争はコンフリクトの転換に失敗した状態ともいえます。今、ロシアによるウクライナへの侵略が続いていますが、ロシアとウクライナの間で、また関係者の助けを借りて、対話とまでは言わなくても交渉が始まれば、少なくとも平和創造のプロセスが進んでいくのではないかと思います。しかし、今はそれがあまり見えてこないのが残念です。また戦争終結後の関係修復の作業は、計り知れないものとなるでしょう。

 

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おせっかいな隣人の存在が社会を変える

 国際レベルでのコンフリクトは遠い存在に感じるでしょう。しかし、身近な家族や友人同士で、コンフリクトは日常的に起こります。複雑さや状況は異なりますが、そこにあるコンフリクトは何だったのかということを見極める作業を始めることが大切でしょう。また暴力ではなく、交渉・対話で平和的に解決しようとする反射神経のようなものを作ることも、理性や知識と同じくらい大切です。そのためには、平和を創りだす、実現させていくための感覚や身体づくりのトレーニングが必要です。

 また胸の内を安心して出し合えるコンフリクトワークができる場所を、社会で作っていくことが大切です。お茶を飲みながら話せる場所などを整備してみるのもいいでしょう。当事者同士の意見を傾聴し、受け止めるファシリテーターもいれば、さらに問題解決が進みます。保健室のような、カウンセリングルームを発展させたようなイメージです。

 私は、若い人たちに「仲良くけんかする方法」を伝えています。我慢しなくてもいい、怒る感情を抑えてはいけないということも伝えます。また会話で、決め付けの「!」ではなく、問いかけの「?」の姿勢を示すことの大切さも伝えます。例えば「私はこんな気持ちだけどあなたはどう?」と語ると、状況は徐々に変わるはずです。さらにそこにファシリテーターやメディエーター(調停の促進役)など、双方から信頼される人(簡単に言うとおせっかいな人)がいれば、コンフリクトをめぐる関係性が転換・変容していくのです。

 私は、平和を創っていくためには暴力という手段ではなく、この社会にどれだけおせっかいな人がいるかということが大切だと考えます。上手におせっかいをやける人がいて、当事者同士がテーブルについてしまえば、もう解決する準備はできているのですから。


                            (2022年11月掲載)