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...令和2(2020)年度 第1回‥


生い立ちや生活とともにあり、

権利を守る「識字」「教育」を


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大阪教育大学教授


森実さん



sub_ttl00.gif「子どもの頃に学べなかったからこそ、いまの幸せがある」

 厳しい生活のなか、生きるために必要な読み書きを身につける機会を奪われた人たちがいます。その背景には戦争や貧困、病気や差別などさまざまな要因があります。識字・日本語教室は、そういう人たちが一緒に学ぶ場所です。

 大阪には官民協働で人権問題に取り組んできた歴史があります。識字もそのひとつで、大阪府で年に一度400人ほどが集まって開かれる、識字・日本語学習者の「よみかきこうりゅうかい」は、2019年に第30回を迎えました。

 韓国にも識字学習者がいます。2019年3月、日本の識字・日本語学習の学習者と韓国の識字学習者の方が福岡に集まり、3日間かけて交流しました。最も印象的だったのは「子どもの頃に読み書きを学べなかったからこそ、今の幸せがある」という言葉です。学習者のみなさんが口々に「そうそう」と言い、うなずかれていたのがとても印象に残りました。

 「どういう意味だろう?」と思われるかもしれません。大人になって文字を身につけたことで自分の人生に豊かな広がりが生まれたという思いがひとつにはあります。現に日韓の国境を越えて人とつながり、初めて会った人たちと昔からの友だちのように打ち解けて語り合うことができました。


sub_ttl00.gif競争的な学校教育への問いかけ

 でも、それだけではありません。仮に子どもの頃に学校に通っていたとしても、厳しい生活のなかでは十分に学べなかったでしょう。勉強がわからない自分にコンプレックスを抱きながら大人になり、親になった時には「あんたは勉強しなさい」と子どもを追い立てていたかもしれない。親のコンプレックスや期待を背負わされる子どもは辛い思いをしたに違いない。そう言われたのです。

 つまり、「子どもの頃に読み書きを学べなかったからこそ、今の幸せがある」という言葉には、勉強が苦手な子や厳しい環境にある子を置き去りにする学校教育に対する問いや批判が含まれているのです。文字の読み書きを身につける過程で、学習者のみなさんは社会のありようを読み直してこられたのでしょう。そして、学校の競争的な環境のなかで読み書きを学ばずにすんだからこそ、じっくりと自分の人生を振り返るようなものとして素晴らしい学びができたとおっしゃったのでしょう。これが識字です。学校教育の問い直しが求められているのです。



sub_ttl00.gif必ずしも現状に即していない法律

 2016年に「義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律」(以下「教育機会確保法」)が、2019年には「日本語教育の推進に関する法律」(以下「日本語教育推進法」)が制定されました。教育機会確保法では、夜間中学校など、義務教育に相当する教育機会の場を広げるよう促されており、全国の都道府県に夜間中学を1校はつくるという方向で取り組まれています。よい法律だとは思いますが、考えるべき問題もあります。

 夜間中学は毎日授業があります。日本で育ちながら十分に義務教育を受けられなかった人たちや、海外から移住してきた人が対象として想定されていますが、そうした方たちすべてに夜間中学は適切でしょうか。学校という場そのものに抵抗がある人や、仕事で忙しく毎晩行けない人もいるでしょう。社会教育の場における地域の識字・日本語教室にも、もっと力を入れるべきだと言えます。

 また、日本語教育推進法については、予算の問題があります。各都道府県で用意した額と同額を文化庁が補助することになっています。しかし都道府県が準備できる額は多くありません。実情に則しているとは言い難いのが現状です。

 ちなみに大阪府は12の市町村の事業をベースに3カ年計画の事業を文化庁に申請し、通りました。2019年度から教材づくりに取り組んでいます。

 最も大きな問題は、昼間の学校についての議論がほとんどないことです。たとえば教育機会確保法で取り上げている不登校の子どもたちが多くいる背景に何があるのか。外国人児童が、障がいの有無に関わらず特別支援学級に入級させられている背景に何があるのか。昼間の学校現場で何が起きているのか。そこを素通りして夜間中学へという流れには違和感があります。

sub_ttl00.gif「ハシゴを登る」教育ではなく「生活や権利を守る」教育を

 日本は国際人権規約や子どもの権利条約を批准しています。つまり、国籍がどうであろうと子どもたちが安心して育ち、生活できる条件を整える責任が政府にはあるのです。しかし現状はまったく不十分です。しかも打ち出される政策を見ていると、明らかに上へ上へとハシゴを登らせる教育です。「市場に任せれば自ずといいものが生まれ、広がっていく」という新自由主義の考え方が日本にもすっかり根付きました。役所や保育、教育などにも民営化が広がっています。民間は儲けるのが善とされ、儲からないものは切り捨てていきます。一生懸命ハシゴを登る子どもたちは下にいる子を見ないようになり、誰かが追いつきそうになったら邪魔だからと足蹴にもしてしまいかねません。私たちはそうした教育が本当にいいと思っているのでしょうか。そうでないのなら、どんな教育が必要なのかをはっきりと打ち出す時だと思います。

 識字・日本語教室もまた、「ハシゴを登る」ための場所ではありません。「日本語検定に合格した」からすばらしいのではなく、何人合格者を出したから「いい教室」なのでもありません。学ぶ場や機会を奪われてきた人、海外からきた人、そもそも教室に来られていない人...そういう人たちの生活や権利を守ろうとする取り組みがベースにあったうえでの識字・日本語教室であることが大前提です。

 そういう場所で一緒に学び、一緒に支援に当たる人が求められています。

 

 (2020年7月掲載)