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・・・令和元(2019)年度 第1回・・・

ひきこもりは「人権」という普遍的な問題のひとつ


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特定非営利活動法人
ウィークタイ

代表理事 泉 翔さん






sub_ttl00.gif ひきこもりへ向けられる「まなざし」

 
 無差別に子どもを襲うといった大きな事件が起きた時、加害者が家にひきこもっていた男性だとわかったとたん、社会のまなざしは事件そのものよりも「ひきこもり」に集中するように思います。まるで原因は家にひきこもっていたことにあるかのように。同時に「ひきこもりは何をしでかすかわからない」「犯罪者予備軍」という言説も出てきます。

 「ひきこもり」という言葉自体は広く知られていますが、じゃあ何が問題なのかについてはちゃんと共有されていないと感じます。「家(あるいは部屋)から出てこない」「仕事もしていない」「いい年をした人間が働きもせず、家にこもっている」。ひきこもる人たちへのまなざしとして、多くの人はこうしたイメージを抱いているのではないでしょうか。

 しかし僕は、人がひきこもる背景には社会的孤立や排除がある、すなわち「人権の問題」だと思っています。「ひきこもり」自体が問題なのではなく、「人権」という普遍的な問題なのです。そこが置き去りにされたまま、「ひきこもる人をどうするか」という議論になっていることが怖いと思っています。



sub_ttl00.gif 普遍的な問題として捉え直したい

 
 ひきこもりと犯罪を結びつけて考える論調が出てきた時、長年ひきこもり問題に取り組んできた精神科医が「ひきこもりの犯罪率はむしろ低い」と発言しました。当事者団体も「ひきこもりと犯罪を結びつけるのは偏見だ」と発信しています。しかし僕はこうした対論には同意できません。「自分たちを犯罪者と一緒にするな」と言っているのと同じではないかと思うからです。

 「生産性」の議論もありました。「ひきこもりは生産性がない」と言われた時、当事者運動の側は「ひきこもっている人もちゃんと"生産"している」という対論を出す。このように「いかにクリーンか」「いかに生産しているか」という議論では、また排除される人が出てきます。たとえば家にゴミをためこんだり、親にケガをさせたりという人が仮に増えれば、「ほら、やっぱり」と言われるでしょう。その時には犯罪率の低さや生産性の話などは、逆に自分たちへの偏見を補強するものになります。

 僕は声明などを出す当事者団体にこそ、あえて「子どもの頃からいじめられ、孤立して、世間からは"不審な人"というまなざしを何年も向けられてきた。人として壊れても無理はないでしょう。なぜこんなふうに壊れてしまったのか、考えることが大事でしょう」と言ってほしかった。「人権という普遍的な問題」に立ち返ってほしかったと思います。



sub_ttl00.gif 同じ目線で話せる「人」と「場」を

 
 僕自身もひきこもりの当事者で、何度か苦しい時期がありました。人に言われるまでもなく、誰よりも「無駄に生きている自分」に対して怒りを向けていました。「笑いたい」と選んだ本を読み、笑ったとたんに「無駄に生きてるヤツが笑いやがって」と自分に対する怒りが込み上げ、本を引き裂いたことがあります。外出は夜にコンビニへ行くだけ。ゴミを出すのも苦痛でした。

 外に出て、人に会うきっかけをつくってくれたのは仲間です。彼は「ほかに話せる友だちがいないから、おまえと話したい」と毎週訪ねてきてくれました。居留守を使っていたら、最初は手紙を、さらには食べ物をドアの郵便受けに入れていくように。「困ったなあ」と思っていたら、最後はスーパーで売っている「ゆでうどん」を入れてきたんです。正直、迷惑でした(笑)。これはちゃんと断らねばと思ってドアを開けたのがきっかけとなり、外に出るようになりました。

 彼がもし「君が心配だ」と手紙に書いていたら、ドアを開けなかったでしょう。憐れんでほしくないからです。「こんなことをしていてどうする」と説教をされていたら、絶対にドアは開けません。

 こんな僕でも「話がしたい」と言ってくれる人がいる。僕がドアを開けた理由は「それだけ」でした。必要なのは同じ目線で話せることであり、何もしなくても「ここにいていい」と思える居場所です。 



sub_ttl00.gif 「手段」の前に「意欲」の回復が必要

 
 ひきこもり支援の柱は「就労支援」です。それも大事だと思いますが、就労は「生きる手段」。その前に「生きる意欲」が必要です。目の前にごはんを出されても、食べる意欲がなければ腐るだけですから。

 また、ひきこもり問題の本質は生きる意欲を喪失していくことです。意味が失われると意欲が失われていきます。その「意欲」の部分を担っているのが自助グループです。過程は違っても同じ「まなざし」に苦しんできた人たちが、その苦しみや楽しみを分かちあう。NPO法人ウィークタイでも、一緒にごはんを食べる「もぐもぐ集会」、それぞれやりたいことをしながらともに時間を過ごす「だらだら集会」、当事者会やピアサポートミーティングなどさまざまな形の場をつくっています。

 共通しているのは「肯定も否定もしない」こと。その場で話される言葉に、ただ耳を傾けます。「怠けだ、しんどいのは自己責任だ」という否定はもちろんですが、「ひきこもりは社会の矛盾に敏感なアンテナをもっている、賢い存在」などと"アイドル化"するのも違う。繰り返しになりますが、ある人を「キラキラした存在」として崇めるのは、「キラキラしていない存在」を排除していることにつながります。生きることに「輝き」や「賢さ」の有無や多寡は関係ありません。

 すべての人を「そこにいるんだね」と受け止める。存在をまるごと受け止められた時、その人なりの意欲の回復が始まると僕は考えます。気をつけたいのは、支援を受けたからといって必ずしも「一歩踏み出さなくてもいい」ということ。僕たちの社会はどうしても「あるべき姿」という基準で人を判断しようとします。それこそが誰かを追い詰めてしまうのだということを知っておきたいと思います。



 (令和元(2019)年8月掲載)