人権を語る リレーエッセイ

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・・・・・ 第81回・・・・・

人として、
宗教者として、

自死遺族を支える

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関本 和弘(せきもと かずひろ) さん

自死に向き合う関西僧侶の会 代表

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sub_ttl00.gif 僧侶自身のとまどいの声を受けて

「自死に向き合う関西僧侶の会」は、関西圏の僧侶たちが宗派を超えて集まり、自死された方の遺族の心のケアを中心に活動しています。遺族のみなさんに参列いただく追悼法要や遺族の方々が安心して気持ちを語り合える場「いのちのつどい」を開催しています。こうした活動を始めたきっかけは、私たち僧侶自身の"とまどい"でした。この10年ほどの間で、葬儀に行くと自死で亡くなった方だったというケースが増加した気がします。そうしたなかで、「自死遺族の方にどう声をかけたら安心を与えられるのか」「どんな声をかけても届かない気がする」といったことをあちこちで聞くようになりました。私が大阪自殺防止センターの相談員をしていたことから、現在の仲間である僧侶から相談を受け、「亡くなった方を供養できるのが宗教者である自分たちの強みではないか」という話になり、2009年の冬に関西で最初の自死者追悼法要をおこないました。

sub_ttl00.gif 友人の自死をきっかけに自分を見つめなおす

私は、寺に生まれたものの寺を継ぐ気はなく、家を出ることばかり考えていました。心理系大学院を卒業後、就職活動をして内定をもらいましたが、卒業間際に住職をしていた祖父が倒れ、否応なく僧侶となったのです。一方、理屈だけは一人前で、20代の頃の私は人に自分の考えを押し付けることばかりでした。僧侶になるには数々の厳しい修行が必要です。ついらいことを乗り越えてきたという自信をもち、しんどい人に対して「本当に大変な経験をしていないから弱いのだ」と批判的なまなざしを向けるような人間でした。

 最初の転機は学生時代の友人の自死です。いろいろ話をするなかで、やはり私は自分の意見を押し付けたように思います。仏教の考えに基づいて「こう考えたほうがいいんだ」というように。しかし結局何も伝わってはいませんでした。どう伝えたかよりどう伝わったかのほうが大事だということを命をもって教えて頂いたような気がします。もっと話を聞いていればよかったと思います。

僧侶になった後も自死される方が身近におり、葬儀に行った時、「自分に何ができるのだろう」と考えました。亡くなった人と話すことはできませんが、亡くなる前なら何かお話しすることができたのではないか。そう考えるようになり、大阪自殺防止センターでボランティアを始めました。

sub_ttl00.gif 「できない苦しさ」への共感

僧侶の一部には自死を「よくない」こととして受け止めている方がいらっしゃいます。けれどある古いお経には「生きたいという欲の反対には死にたいという欲がある」というふうに書かれていました。その相反する欲のなかで人間は生きているんだと。それに対し自死の善し悪しは一切書かれていませんでした。

 電話相談を受けていると、宗教者が話す言葉は必ずしも優しくないことを感じます。確かに正論ではありますが、正論は心を休めていらっしゃる方には必ずしも優しくはないのです。たとえば、今から死のうとしている人に対して「こうしたらいいのに」と思うことはありますが、それは「私」の思いなのです。電話をかけてくる人は「それができない苦しさをわかってほしい」と訴えているのです。電話相談を通じて、「したくてもできない苦しさ」があるということがわかってきました。

僧侶の会の「いのちのつどい」は隔月に開催しています。会が終わった後、一人で仏様の前で焼香して、黙って煙を見上げておられる方の姿などを見ていると、静かに亡くなった人と向き合ったり、悲しめる時間をもてることに一番意義があるのかもしれないと思います。

sub_ttl00.gif 悲しめる場所がない人に場を提供したい

「いのちのつどい」に参加された方のお話をうかがっていると、自分自身の居場所がない方が少なくないのを感じます。家族に「いつまで悲しんでいるんだ」と言われる方もいれば、大きすぎるショックに対して十分に悲しめなかったことで心を病んでしまい、自身の時間が停止してしまったことを「怠けて」いると責められた方もいます。そういう方にはスタッフが住職を務めるお寺のなかから最寄りのお寺を紹介し、自分だけの時間をもつことをおすすめします。また、悲しいという感情に蓋をする方もいます。あえて忙しく動くことで気持ちを紛らせようとされるのです。しかし感情に蓋をしても、悲しみが消えてなくなるわけではありません。無理せず、十分に悲しみ、亡くなった方と向き合う時間をもつことが遺族の方にとって何より大切なのだと思います。

 自死される方が年間3万人以上もいることの原因を一概にはいえません。しかし生きているのか死んでいるのかわからない方が増えたという気がします。「生きててもいいけど、いつ死んでもいい」、つまり生きるのも死ぬのも同じという感覚をもっている人が意外と多いのです。目に見えることばかりが注目され、人の気持ちやつながりといった目に見えないことを大切にする時間がなくなったことが影響しているのかもしれません。

 今後、僧侶の会では男性に限定した遺族会に取り組みたいと考えています。男性は感情を表すことに慣れていない人が多く、「いのちのつどい」でも社会や政治の話、一般論から始まり、「悲しかった」という言葉が出てくるまでにずいぶん時間がかかります。女性とは違うやり方が必要だと感じています。

現在では、自死の防止への取り組みが各所で見受けられるようになりました。私たちの活動も含め、さまざまな取り組みが自死を人ごとではなく、誰にでも起こりうることとして受け入れられることにつながっていけばいいと思います。

   (2012年4月掲載)