人権を語る リレーエッセイ

中川 幾郎(なかがわ・いくお)さん 第41回
少数者の視点を生かした同和地区の“まちづくり”に学ぶ


中川 幾郎(なかがわ・いくお)さん

帝塚山大学法政策学部教授

誰もがコミュニティーの一員

今、各地で「自分たちのまちを見直そう」とさかんに“まちづくり”の取り組みが行われています。それでは、“まちづくり”とは具体的にどんなものなのでしょうか。
昔の村落共同体は、生産共同体でした。たとえば、米づくりにしても4、5人の家族労働だけではこなせません。苗代づくり、田植え、草むしり、刈り入れ、脱穀・・・すべて地域の人たちで助け合ってやってきたわけです。農業中心の生活から、サラリーマン化、核家族化が進み、もはや共同体は崩壊したという見方をする人もたくさんいます。しかし、同じ道路を使い、同じ学校に子どもを通わせるという“暮らしの共同性”は残っています。そういう意味では、どこに住んでいても誰もが共同体(コミュニティ)の一員なのです。

その地域で生きることを引き受けることから始まる

それなのにまるでシティホテルの一時滞在者のような態度で、行政に対して「サービスがなってない」と不満ばかりをぶつける人がいます。確かに物足りない部分はあるでしょうが、すべての人が満足する行政サービスを実現するには大変なコストがかかります。
私は住民を「何もしない人」「要求ばかりする人」「リスクを引き受けながら自ら動く人」という3つのタイプに分けて考えます。そして、本当の意味での市民とは、リスクを引き受けながら動く人だととらえています。さまざまな事情でいつかは他所へ移らなければならないかもしれないけれど、そこにいる人や景色や時間を大切に思い、いとおしみながら生きる人であり、さらには「そこから逃げようとしない人」ともいえます。
被差別部落の人たちの場合は、逃げたくても逃げられませんでした。逃げられないにしろ、逃げないにしろ、そういう状況にいる人間には覚悟が生まれます。その地域で生きることを引き受けた瞬間、人は“市民”になるのです。覚悟をして引き受けた人はがんばれる。するとまちが変わります。
同和行政における“まちづくり”とは、そこに住まざるを得ないことを引き受けた人たちによるものでした。だからこそ高齢者や障害のある人など「社会的弱者」といわれる人たちの目線も取り入れた、すぐれた“まちづくり”の事例がいくつも生まれたのです。

阪神・淡路大震災が起きた当時、私は豊中市の広報課長を務めていました。その時、同和地区で活動をされている人たちを中心に、高齢者や障害のある人に必要な情報や物資が行き届かない、いわゆる「災害弱者」の問題を指摘する声が挙がりました。震災という非日常的な状況において出てきた指摘ですが、ふだんから「弱者」に対するまなざしをもっているからこそだと思います。「自分たちの地区をどうしてくれるんだ」といったエゴイスティックなものではなく、「弱い立場に置かれている人たちがいることを自分たちならわかる。こういう人たちを忘れたらあかんよ」というメッセージでした。
部落差別に苦しみながら、逃げるのではなく、“まちづくり”に取り組んできた人たちは、社会の崩壊をぐっと食い止める役割を果たしてきたのではないかと感じています。“まちづくり”に際しては、手法だけでなく、こうした価値観からも学びたいものです。
偏ったマスコミ報道もあり、同和行政に対する批判が高まりました。特別対策の法律がなくなったから、もう特別扱いはできないと同和施策を廃止する地方自治体もあります。しかし、地場産業があって経済的に豊かな同和地区もあれば、自立できる人はどんどん出て行き、よりしんどい人が入ってくる地区もあります。同和行政は地域の特性や個性を踏まえておこなわれるべきで、一律ではあり得ません。また、大阪府が2000年と2005年におこなった府民の意識調査では、同和地区や地区の人との関わりを避けたいと思っている人が増えていることが明らかになりました。部落差別はなくなったどころか、むしろ強化されているのです。

少数者の権利尊重は多数者の責任

人権条約を結んだ国および地方公共団体の施策は、人権条約を基準にするのが国際的なルールです。もちろん国際人権規約を批准した日本にも当てはまります。人権条約は少数者の権利を守るのが大前提であり、多数決の原理には従わないということを意味します。実際、世論調査を盾にする日本政府に対し、国連の人権小委員会は「人権行政は世論調査の結果によって左右されるべきものであってはならない」と勧告を出しています。
「多数決が民主主義だ」と考えている人は多いようですが、多数決は「時間がない」「限られた資源しかない」という時の最終手段であり、常に発動するものではありません。また、多数決によって少数者の権利が侵害されないようにする責任が多数者側にあることも認識すべきです。そして、その責任を代表するのが行政機関であり政治機関なのです。
“まちづくり”をするうえでも、多数者による少数者の権利尊重は重要なポイントです。少数者を「異物」のように見なしたり無視したりするのではなく、摩擦を起こしながら、適度な距離を保ちながら、共に生きていく。お互いの存在を認め合うことによって地域の安全が確保されます。何より成熟した社会や地域であるための原点として、「少数者との共生」を市民一人ひとりの心に留めておいてほしいと思います。