人権を語る リレーエッセイ

中田 豊子(なかた・とよこ)さん 第35回
文字を取り戻したら、「差別」が見えてきた


中田 豊子(なかた・とよこ)さん

日之出よみかき教室

母と妹を直撃した焼夷弾

戦争(太平洋戦争)が終わった時、わたしは10歳でした。9人きょうだいの8番目で、兄ひとりが戦死し、母と当時3歳だった妹の末子は空襲で亡くなりました。姉が縫ったもんぺと母が仕事の合間につくった赤い花緒のぞうりを履き、わたしを「とっこ、とっこ」と呼びながら追ってきた、“いちまさん”(市松人形)のように可愛い妹でした。
戦争が終わるまでは、学校へ行っても穴掘りばかりでした。給食に出るパンを半分残して持って帰ると、妹は「パン、とっこ、パン」とうれしそうに寄ってきたものでした。
けれど、1945年(昭和20年)6月7日の空襲で、母と妹と姪は焼夷弾に直撃されて大やけどを負ってしまいました。同じ場所にいた私のいとこは母の体に隠れて無事でした。妹は焼夷弾が目に当たり、顔が真っ黒に焼け、目も見えなくなっていました。「とっこ、かゆい」と言う手をかいてやると、手の皮が手袋を脱ぐようにズルッとむけてしまいました。そっとなでると小指は中身が焼けてぶよぶよです。怖くなってしまい、それ以上さわることができませんでした。母は顔も手も重症のやけどで風船のようにふくらんでいましたが、子どもたちの名前をうわごとのように呼び続けていました。
そして結局、3人とも亡くなりました。それからしばらくの間の記憶がありません。いまだに母の顔やふたりを病院に運んだあとのことが思い出せません。

生活に追われ、学校へ行けなかった

戦争は終わりましたが、家は焼け、何もかも失いました。10歳にして悲惨なものをたくさん見てしまったわたしは、頭の一部がもやもやしたままでした。
父と一緒にトタン屋根のバラックの家をつくりました。父は日雇いの仕事をしましたが、アブれた時は「ひしの実」を取りに行きました。わたしは父が取ってきた実を洗濯板でこすって角をとり、鉄鍋で茹でました。竹の升1杯を10銭で売るのです。
生活に追われ、学校へは行けませんでした。それでも行きたくて、外からのぞいていたことがあります。先生に「みんなの気が散るから、家へ帰りなさい」と言われました。結婚し、北海道へ行った姉に「学校へ行かせてやるから」と誘われ、不安な気持ちで北海道まで行きましたが、義兄が現場監督をしている飯場で朝早くから晩まで働かされました。
15歳の時に日之出へ帰り、子守りや女中奉公、メリヤス会社でのアイロンがけなど、さまざまな仕事をしました。けれど親が前借りをしていたり、紹介してくれた人がいなくなったりで、まともに給料をもらったことは一度もありません。学校へ行っていないので、文字の読み書きができず、事務員にはなれません。本当に悩みました。

子どもが寝ている間に働き続けた10年

悩んだ末に、もうひとりの姉が住む岐阜でホステスとして働き始めました。店では自分で伝票を書かなければなりません。ほかの人が書く様子を見て、「ビール」や「さけ」「フルーツ」という字を覚えました。
25歳で店に氷を運びにきていた男性と結婚し、ふたりの子どもに恵まれましたが、30歳を前に離婚。姑にまだ1歳だった娘を預け、日之出へ帰ってきました。バラックの家に住み、一日も早く娘を引き取り、親子3人で暮らせるようにとがんばりました。けれど女ひとり、子どもと食べていくのは大変なことです。梅田のクラブへ働きに出て、2年後にようやく娘を引き取ることができました。
仕事に行く時は子どもたちにご飯を食べさせてお風呂にも入れ、7時ごろ出かけて12時までに帰ります。子どもたちが寝ている間に働いて帰ってくるのです。約10年間、そうやって働いて子どもたちを育てましたが、肺炎で死にかけたのをきっかけにやめました。以来、10年以上も続いた下痢や卵巣の手術、腸の癒着、耳の病気など、次々と病気をしました。病院に行っても、自分では問診票を書けないので、知りあいに書いてもらったりしていました。

子どもたちに語り続ける「戦争」と「差別」

離婚して日之出へ帰るまで、自分が部落民であることは知りませんでした。隣の家の人に誘われて、第二改良住宅建設運動に参加するようになって初めて、いろいろなことがわかってきたのです。なぜ、学校へ行けなかったのか。なぜ、水商売の仕事しかできなかったのか。働いても給料がもらえなかったのも、差別されていたからだと今になってわかります。差別されているのに、差別されていることすらわからない。それが差別というものなのです。
日之出支部の人に誘われ、50歳を過ぎてから文字を勉強しました。識字教室では、わたしの話をゆっくり聞いてくれる講師と出会いました。その頃から自分の生い立ちを語れるようになり、自分でも書けるようになりました。すると不思議なことに、ずっと頭のなかにあったもやもやがスーッと消えていきました。
1993年、空襲のことを書いた「六月七日」が第19回部落解放文学賞を受賞しました。周りの人は喜んでくれましたが、苦しい体験を書いたものなので、うれしいような悲しいような複雑な気持ちでした。けれどもそれからも書き続け、今年は「ふさえさんのうどん屋」という作品で、第32回部落解放文学賞をいただきました。
子どもたちに戦争体験を語る活動もしています。子どもたちにはいつも「勉強せずに苦労するのは自分や。あんたらには勉強する場所があって、戦争もない。今のうちにしっかり勉強しときや」と言います。私が体験を語っているとき、当時の煙や火薬、人が焼けるにおいがよみがえってきて、なんとも言えない気持ちがします。それでも戦争と差別をなくすために、これからも体の続くかぎり自分の体験を伝えていきたいと思います。