人権を語る リレーエッセイ

重光 静子(しげみつ・しずこ)さん 第25回
識字との出会いで変わった、わたしの人生


いずみ識字学級・ゴールドマウス教室
重光 静子(しげみつ しずこ)さん
ローマ字で書かれた駅名や道路標識を読みたかった
いずみ識字学級に通うようになって、8年目になります。ゲートボール仲間が「人権文化センターで勉強できるで」と教えてくれたのがきっかけでした。「ほんまの話?」おっかなびっくりで教室にいくと、みなさんそれぞれ一生懸命です。それまでは私は「ローマ字」は知らなかったのです。子どもたちが残していった教科書、参考書を手探りでかろうじて勉強しておりました。そんな時、電化製品の説明書が読めない、駅名、道路標識が読めない、「ローマ字が読めたらすぐ読めるようになる」という話をきいて早速先生にお願いしました。その頃の私には夢のような話でした。「ワープロ」「パソコン」の区別もつかず「ワープロ」を使っている人を見てとてもうらやましかったです。教室の先生はどこかで使い古しのワープロを探してくださり早速「ローマ字」入力の勉強が始まりました。週一度の授業ではとても追いつきません。私は強引に「大事に使いますから、家にもちかえらせてください」とお願いしたのです。許可がおりましたが、なかなか「ワープロ」自体を使いこなせません。「ワープロ」と毎日が格闘です。「ひらがな」文字はそれなり読めるのですが、漢字はもちろん「ローマ字」なんて、「アルファベット」自体も何も知らない、文字も大文字、小文字の区別も知りませんでした。日本語の発音を、ローマ字で表すにも四苦八苦、おまけに悪い事によく忘れる。教えてくださる先生方の、ご苦労はとても大変です。でも「続けることは大きな力」になり、微力ながらも覚えることに言うに言われぬ喜びになり、励みになり、勇気がふつふつと沸いてきました。
手書きで、つけていた日記をローマ字で入力してみました。識字学級でひとつひとつワープロに打ち込んでいきました。厚紙にキーボードを写して、家で何度も繰り返し練習して覚えました。「白内障」の手術をした時のことです。片方の目は眼帯をしたままの状態の時に、両手がキーボードの上にのせるとキイを上手に操作している自分の手をみて「やった」・・・それは言葉にならないくらい嬉しかったです。
勉強したらたたかれた子ども時代
今になってどうしてこんなに勉強するのかというと、子どもの頃に勉強できなかったからです。生活の苦しい戦時中、両親も6人の子どもを抱えて生きていくのに必死ですから、子どもたちに教育を受けさせる余裕もないし、特に女の子には教育なんて必要がないという考えですから、勉強そのものに、余裕も理解も全然ありませんでした。勉強しようと本をひろげると細い竹の鞭(むち)でたたかれ、家事や、幼いきょうだいの面倒を見る事に明け暮れておりました。でも識字で色々な人権についてのイベントに参加してみて、初めて両親たちの苦労が偲ばれ理解ができてきました。やはり私は「識字学級」で人権の尊さを学んで初めて人間としての余裕をもてたものと近頃はつくづく思っております。
自分の子どもには絶対に勉強させて、人から尊敬される人間に成長してくれることを願いました。当時私たちの時代は汚い、天候にふりまわされる仕事しかなかったので余計に子どもたちにはそんなつらい、いやな思いをさせたくなかったのです。だから私自身動力ミシンで1枚20円のベビー服を縫う内職をしながら必要な参考書となれば、どんどん買いあたえました。(その参考書など現在私が重宝しております)
特にそんなことを念頭において、ソロバン、ピアノ、英語等々、家庭教師もつけて勉強させました。自分たちは韓国人であることを常に認識させました。名前も通名じゃなくて、子どもは男、女1名づつおりますが現在も「辛」という先祖代々の姓を名乗っています。
私自身とても厳しい教育ママだったようです。たまりかねた娘が小学生のとき担任の先生に相談したようです。「あんまり子どもに厳しくしないでください」と言われても、「この先生、何を余計なことを」と思ったりしました。今思えば、思いやりがなかったようでした。
苦しい生活のなかで、子どもに教育をうけさせねばいけないと思いつめていたから、気持ちにゆとりがなかったようです。
歴史を学んで、親への恨みが消えていった
私は「在日韓国人です」と言えるようになったのは「識字学級」で勉強を始めてからです。私の子ども時代は両親とも普段は着物の生活でした。しかしあまり親子の対話はなかったようにおもいます。だから両親の子ども時代の生活は何も知りません。子どもたち2人の親になって私は思いきって父の出生地を探しにいったときです。父の生まれた家を見つけた時の驚き、言葉になりません。あまりの悲惨さに涙がこぼれました。両親たちが自分たちのことを話さないわけが、解かりました。幼くして、ただ生きるために、異郷の日本の地に渡って来なければならなかったことも!! 魂をえぐられるような差別にひたすらたえながら・・・。
きつかろうが、危険だろうが、汚かろうが、子どもを育て生きていくため頑張るしかなかったのです。だからそんなことが分かった時、私自身のおろかさに恥じました。改めて両親の苦労と有りがたさにしみじみ感謝し、申しわけなく思っています。こんなことも識字学級で歴史を学ぶことで理解できつつあります。
私の成長期は日本に支配され言葉も文字も使えない、しかも戦争に巻き込まれた時代です。そんな時に少しでも異国の日本で私たち子どもを差別から守ろうとして、よく理解できない日本語をしゃべって「シツケ」にも厳しかったものと考えられます。そんな逆境の中でなりふりかまわず働いて、私たちきょうだい6人を無事育ててくれた両親に一度もやさしい言葉で対話できなかったのが、とても残念で心のこりです。
今「ハングル」を勉強しておりますが、「ハングル講座」で「スレギ」という言葉を習ったとき「ゴミ」という意味だと知りました。だけど私は大根葉の干したものが「スレギ」だと思い込んでおりました。うちの親たちは捨ててある大根葉を拾ってきて、カラカラに干したものを長期保存し、食べるときはお湯に戻し、ダシじゃこと一緒にお味噌を入れてジワーッと炊き込んで、子どもらに腹一杯食べさせてくれた親の心情を考えると、生活に対する知恵には頭の下がるおもいです。
寝る間も惜しいほど勉強が楽しい
私は自分が在日韓国人であることを、しばらくは識字学級の先生や仲間のみなさんに言えませんでした。言ったらいじめられるんじゃないかと怖かったのです。だから海外研修の話が出た時も、ものすごく行きたかったのに国籍がばれるのが怖くて断ってしまいました。何年かしてから恐る恐る話してみたら、みんな「そうなの」と言うだけで態度は少しも変わらない。安心しました。昔はコンプレックスがあって、よくひがみました。素直に「知らない」と言えないから、テレビを見ていても、ニュースが始まったらチャンネルをお笑い番組に変えたものでした。でもこの頃は違います。新聞やテレビのニュースなどもよく見るようになりました。国際問題にも関心が持てるようになりました。
学ぶことの楽しさは、多くの先生方、友だち、また若い友だちができ、ともにお話ができる機会が増えたことです。私の知らない世界がひらけてきます。その楽しみは、脳梗塞(のうこうそく)の後遺症のつらさを消してくれます。「ローマ字」を覚えたおかげで「電子手帳」の利用もできますし、子どもたちからも、孫からも勉強方法を教わっています。勉強できるのがとても私に生きる励みになります。健康に留意してますますつづけられるよう、頑張っていきたいものです。生きがいを与えてくださったみなさん、ありがとうございます。