人権を語る リレーエッセイ

東野 正尚(ひがしの まさなお)さん 第22回
高齢者介護を通じて問われる人権意識


(社福)大阪府総合福祉協会 常任理事兼事業本部長
東野 正尚(ひがしの まさなお)さん
「看取る介護」から「共に暮らし支える介護」へ
高齢者介護について考える時、介護自体が「質的な変化」をしていることを念頭に置く必要があります。昔は「看取るための介護」でしたが、高齢化が進むにしたがって「共に暮らし、生活を支えるための介護」と変わってきました。特に近年は認知症の高齢者が急激に増え、介護の長期化・重度化が大きな問題となっています。当然、家族だけでは支えきれません。ところが意識のほうが変化に追いついていない。社会、個人、高齢者自身、そして家族の意識も含めて、個人(家族)では支えきれるものではないのに関わらず、「できません」と言えない・言わせない環境が歴然と残っています。この「状況の変化と意識のギャップ」が、さまざまな悲惨な状況を生み出していることをまず認識しなければなりません。
介護保険の成果と課題
介護の長期化・重度化は、介護する家族の心身に負担をかけます。日本労働組合総連合会による「要介護者を抱える家族についての実態調査」(1994年)では、要介護者に対して約7割もの人が程度の差こそあれ「憎しみを感じたことがある」と答えています。介護保険は、家族の負担を軽減し、「介護の社会化」を進めることを目的にスタートしました。しかし現実にはまだまだ過重な家族介護の実態があります。「できないものはできない」と率直に言える状況をつくらなければ、お互いの人権を踏みにじる・踏みにじられることになってしまいます。
介護保険がスタートして5年が過ぎた今、車椅子の高齢者をまちで見かけることは珍しくありません。高齢者の行動範囲が広がり、生活の質が向上してきました。また、介護サービスを利用する人が増えたり、介護が身近な問題としてとらえるようになったりするなど、介護の「権利性」が高まったのは介護保険の大きな成果だといえます。しかし一人ひとりの生活実態に合ったサービスをどこまで提供できているかといえば、質的にも量的にもまだまだ十分ではありません。
「問題行動」というとらえ方を問い直す
「一人ひとりに合ったサービスを提供する」と言うのは簡単ですが、実際にはなかなか難しいものです。たとえば認知症の高齢者が徘徊や異食などといった「問題行動」をしたり、ひとりで歩いたり食事したりするのが困難な時、介護する側は「どう対処するか」を考えがちですが、本当は「問題行動」や「困難」の背景をていねいに見なければ、介護のレベルそのものが向上しません。
以前、ある施設では自分でおむつを取り、周囲を汚してしまう高齢者に抑制衣を着せていました。よく聞いてみると、その施設ではおむつを定時交換しており、タイミングによって2、3時間も汚れたままになります。それはやはり気持ち悪い、だからおむつを取ろうとする。つまり「気持ち悪い」という表現であり、「もっとちゃんとケアしてほしい」というサインなのです。介護する側の都合で「問題だ」と決めつけると、本質が見えなくなります。「問題行動」にこめられたサインをキャッチしていくことが大切です。
人生の最後を人間らしく
最近、福祉に携わる人に話をする時には「3つの“私”を磨いてください」と言います。「専門職としての“私”」と「組織人としての“私”」、そして「人としての“私”」を磨き続けてほしい。どれも大切ですが、最もベースになるのが「人としての“私”」でしょう。たとえば高齢者と呼ばれる人たちを自分がどう理解するのかなど、人としての自分のあり方を常に問い続けることです。
1991年に「自立」「参加」「ケア」「自己実現」「尊厳」の5原則が掲げられた「高齢者のための国連原則」が採択されました。これは日本における介護保険を軸にした高齢者ケアの方向性と合致しています。このことを介護する人、特に専門職にはきっちりと頭に入れておいてほしい。なぜならば専門職としての意識が高まるほど当たり前のことが当たり前でなくなっていく傾向が見られるからです。「体の自由を奪う身体拘束をしてはいけない」というのは当然なのに、「事故防止のために時には身体拘束も必要だ」としてしまう。高齢者の人権よりも自分たちの都合を優先させるわけです。今の特別養護老人ホームや施設で働いている人たちの中に、自分の老後をその施設で過ごすのはいやだと言う人も少なからずいるはずです。しかしそれはおかしい。我々がもっている社会資源の量や質には限界があるけれども、あくまで5原則の実現に向けて努力をしていくべきです。
さらにわたしは3つのキーワードを提案しています。それは「安心」「楽しさ」「生きがい」です。高齢者の人権を考える時、暮らしのなかにこの3つがあるかどうかがポイントだと考えています。