人権を語る リレーエッセイ

菰渕さん 第6回
個人の独立・自立をベースに描く「家族」と「人権」



大阪府立大学社会福祉学部助教授
菰渕 緑(こもぶち みどり) さん

 

まだまだ大きい「家族」の負担

私は、「家族」というもののあり方や変化に関心をもち、20年以上にわたって研究してきました。今までも、そしてこれからも、日本の「家族」がどういう形態になっていくのかというところに一番関心をもっています。
ひと言で家族といってもさまざまな問題がありますが、なかでも高齢者問題は社会的に大きな課題のひとつといえるでしょう。日本は世界でも類を見ないスピードで高齢化が進んでいるといわれ、ここ数年は介護保険を始めとする社会制度も急ピッチで整備されてきました。介護の「社会化」が始まっていると感じていますが、まだまだ家族が担っている部分がとても大きいのも事実です。どちらかというと、家族が担い切れない部分を社会が少し担うようになってきたと表現したほうがいいのかもしれません。家族介護といっても、実際に介護するのは「子の配偶者」、つまり「長男の嫁」が圧倒的に多く、精神的・肉体的負担はかなりのものです。介護する人自身が高齢者であるという、「老・老介護」も珍しくありません。その負担をいかに減らしていくかが今後の課題だと思います。

 

オーストラリアの家族観

「家族」が抱える問題を考えるうえで、私が非常に面白く感じたのはオーストラリアです。イギリスの植民地、とくに流刑地として出発したオーストラリアは、日本とは家族観がまったく違います。まず、3世代同居ということがほとんどありません。ですから高齢者も「自分と子どもの人生は別。お互いに自立して生きていくもの」と考えており、「子どもに頼る」という意識はほとんどありません。オーストラリアも1980年代頃から「白髪増すオーストラリア」をキャッチフレーズに、高齢化社会の準備を着々と進めてきました。けれども基本姿勢は「できるだけ自力で家で生活し、自立できなくなれば病院や施設に入所する」というもので、高齢者がプライバシーと尊厳を保ちながら生活するために必要なサービスの充実が図られているのです。
ユニークなのは、「グラニ―・フラット」とよばれる小さなプレハブ住宅です。お金を払えば、子どもの家の敷地内に設備を完備したプレハブ住宅を建ててくれます。費用が払えない場合は順番待ちをすれば国からの補助金で建ててもらえます。一戸の敷地が広いオーストラリアならではのアイディアで、これならお互いのプライバシーも尊重しながら行き来しあえるだろうという考えがあったのでしょうが、肝心の利用者があまりいないとのこと。やはりオーストラリアの人にとっては親子が束縛しあうような感覚があり、受け入れにくいのでしょう。

 

急激に変化してきた日本の「家族」

オーストラリアの人々の感覚は、日本人にすれば「水くさい」かもしれませんが、私の知る限り、親子の情緒的な結びつきはむしろ非常に強いといえます。家族を大切に思い、家庭を大事にします。ただ、自分のことを家族にゆだねるのではなく、できるだけ自分の力でやり、できない部分は社会的なサービスやケアを受ける。それが当然だという意識が一般的で、国の施策もこうした意識に沿って行われます。
日本とオーストラリアとではもちろん国民性が異なりますが、日本における福祉を考えるうえで参考になる点も多々あると思います。というのも、日本の家族のあり方も従来とは大きく変化してきているからです。たとえば、離婚率の急激な増加、少子化、結婚しない人の増加などです。特に離婚率の増加は私自身の予測をはるかに上回るものでした。日本の場合、やはり「家」意識が根強いため、それほど離婚は増えないだろうと考えていたのですが、欧米での変化を数年遅れで追いかけているという印象です。

 

誰もが個人単位で受けられる福祉を

このように「家族」の形が想像以上のスピードで多様化しているのに対し、国の福祉政策のモデルは未だに「夫婦に子どもふたり」を基本にしています。そのために必要なサービスやケアが受けられないという人が出てきます。福祉政策は、家族単位か個人単位かによってまったく違うものになります。今の日本の福祉は明らかに家族単位で考えていくというスタンスですが、やはり今後は個人単位で考える必要があると私自身は考えています。シングルの人はもちろん、家族のいる人でも個人単位で福祉サービスを受けられる。家族ぐるみではなく、個人に対してサービスが行われる。それが結果的に家族を援助することにつながるというのが理想的なのではないでしょうか。
こうした多様な家族像を念頭においた福祉政策は、私たちの「人権」意識を確立することにもつながると考えています。「人権」とは、個人の独立・自立と強く結びついています。人間は一人ひとりが独立した存在であり、自立して生きるものだという意識がないところで人権意識を育てるのは非常に難しいことです。そういう意味で、「家族」について考えることこそが私たちの人権意識を問い直すことに他ならないと思うのです。