新着情報

...令和元(2019)年度 第6回‥


「同性愛者の家族」という当事者として



南さん 掲載写真.JPG





なんもり法律事務所

南 ヤヱさん



sub_ttl00.gif 息子から突然のカミングアウト


 私の息子、和行は同じ弁護士である同性パートナーと暮らしています。同性愛者であることを告げられたのは、彼が24歳の時でした。あまりの衝撃に、その時の記憶がありません。一緒にいた、和行の兄である長男は「泣いてたよ」と言いますが・・・。

 なぜ泣いたのか。同性愛とは恥ずかしいこと、不潔なことだと思っていたんだと振り返れば思います。

 それまで同性愛について考えたことも学んだこともありませんでした。聞かされたのが2000年のことでしたから、まだLGBTやセクシュアルマイノリティーといった言葉も聞かない時代です。とても受け入れられるものではありませんでした。

 同性愛は「後天的になる悪いこと」だとも思い込んでいました。今から思うとそれは大きな間違いですが、だから最初は母親である自分の育て方が悪かったのかとも悩んだものです。悲しいというよりも、それこそ子どもが何か罪を犯したような気持ち。それほどの衝撃でした。

 それまで和行のことで悩んだことはありませんでした。乱暴なことはしない、やさしい子。友だちもたくさんいたし、女の子からも人気がありました。女性を連れてくることはありませんでしたが、「まあ、そのうち」と思っていたのです。



sub_ttl00.gif 友人としては認めてもパートナーとしては・・・


 和行は、そんな私に何年もかけて根気づよく話してくれました。自分がパートナーとして選んだ吉田くん(吉田昌史さん)の人となりや、生い立ち。同性愛は自分で選んでなるものではないし、その原因を問う事自体が意味のないことで
、誰が悪いわけでもない。誰をパートナーに選ぶのかは人それぞれであり、尊重されるべきものであること----。

 私は「ふんふん」と聞いてはいましたが、理解しようという気はありませんでした。「ふんふん」は相槌です。理解も受け入れてもいなくて、ただ「聞いておく」という意味です。

 和行は吉田くんを家に連れてくることもありましたし、2人が弁護士を目指してロースクールに通っていた2年間は2人ぶんのお弁当をつくっていました。彼は早くに両親を亡くしていたので、和行が「吉田くんのぶんもお弁当をつくってほしい」と言った時、もっともだと思いました。私は吉田くんを息子の友人としては受け入れ、大事に思っていたのです。でも「パートナー」としては受け入れられませんでした。



sub_ttl00.gif おおらかに受け止めてくれた人たち


 和行がどれだけ根気づよく話してくれても、私は同性愛は「治る」ものだと思っていました。知識がなかったというより、知識や情報を「拒否」していたのです。私は読書も学ぶことも好きなのに、同性愛について正しい知識をもとうという気にはなれませんでした。

 正しい知識を得たら、もう息子が同性愛者であることを認めるしかなくなってしまう。そんなふうに感じていていたから、知ることも考えることも拒否していたのだと後になって気付きました。

また、今思えば「みんなと一緒から外れる」のが怖いという気持ちもあったんだと思います。

 一方で、姉や義姉、長年の親友には息子のことを打ち明けました。「和行がこんなことを言い出して、どうしよう」と。姉たちはおおらかに受け止めてくれ、親友は「そういうことで心配せんでいいよ」と言ってくれました。ホッとしたのを覚えています。「とんでもない!」と怒り出したり眉をひそめたりしそうな人には話していません。「この人ならわかってくれそう」という人を選んでいました。たとえ同性愛についてよく知らなくても、頭ごなしに否定したり拒否したりしないことが大事なのですね。こういう理解や受け止めてくれる人が増えていくことが必要だと感じています。



sub_ttl00.gif 家族の葛藤や孤立に思いを寄せたい


 2人が交際を始めて10年が過ぎた2011年4月、結婚式を挙げることになりました。その時点でも私はまだ「治る」と思っていたのです。「あんなことを言ってるけど、いつか和行も吉田くんも、それぞれ好きな女性を見つけるだろう」と。ただ、たくさんの人が集まってくれるのに親の私が欠席するのも申し訳ないという気持ちで、出席することにしました。

 式は心のこもったものでした。その様子を見て、ようやく「恥ずかしいことではない」と思い、受け入れられました。ただ、ほかの親戚や友人知人にはまだ話せませんでした。2015年に和行が出版した本、『同性婚 私達弁護士夫夫です』を親戚や友人に少し送りました。そして、2016年に2人が『僕たちのカラフルな毎日』を出版した時は、もう少し送る人を増やしました。その後、ようやく言えるようになったのです。本を送ったのは、「世間体を取るか、子どもを取るか、私は子どもを取らなければ」と思って本を送る決断をしたように思います。本を送ったことについて反応も返事もない人もいましたが、私はそんな友人たちを冷たいとは思いません。かつての自分の姿を見る思いです。冷たいのではなく、どう受け止めればよいのかわからないのだと思うのです。

 私には生まれながらに障がいのある甥がいます。そのことがわかった時、独身だった私は「この子の障がいを理由に私と結婚しないと言う人とは、私のほうから断る」と決意しました。ですから自分は多少なりとも差別について考えている人間だと思っていたのです。けれど同性愛を受け入れるのに長い時間がかかってしまいました。「当事者」にならなければわからないことがあると学びました。

 私は同性愛の当事者ではなく、「同性愛者の家族」という当事者です。同性愛の当事者のみなさんは仲間がいたりコミュニティーがあったりして、発信もしやすくなってきました。でも「家族」はまだまだ孤立しているのではないでしょうか。特に高齢の親世代が受け入れるのは大変だと思います。私が発信することで「大丈夫ですよ」と伝えられたら幸いです。

 今、息子たちの事務所で一緒に働いています。時間はかかったけれど、2人の生き方を受け入れられてよかった。決別しなくてよかった。今、心からそう思います。



(2020年3月掲載)