ちょうど、その頃に、30歳くらいの若い整形医が2人来たんじゃわ。
その2人が来て、非常に熱心に、これまでの医療とは違う医療をしだしてね。だから自分の悪いところを、この整形医のおられる間にできるだけひとつずつ、整形してもらおうと思って。
6年間くらいかけて何回手術台に上ったことかわからん。
そんなことを繰り返しとったけど、なんかしたいし、ほんとは技術を身につけりゃよかったんやけど、そんなことは結局ようせんかったんかな。
しかし、私が社会に帰りたいと思い出してから、‘70年に実現するまで7年か8年たつんじゃわな。愛生園の中で私は、健康度としたら、中より下やった。
だから「社会へ帰る。」てみんなに言うたら、みんなが笑うみたいなところもあったんじゃわ。おまえみたいな不自由なものがなんでそんな復帰みたいなことを言える、自分でもそんなこと、まあ、言うなあ、いう風なみんなの気持ちも分かるし、一方で、「そんな気になえたらあかん。」思て、「わしは帰るんや、帰るんや」とみんなに言いふらしてね、自分を鼓舞して、自分の気持ちがおとろえんようにということでずーっとやってきた。
それより前、‘60年くらいに、わし、退所基準というのを受けとったんや。その基準はクリアしとった。
で、大阪に出てくる前に、園長に「小さいときにこの島へ来て、一回は外へ出て生活したい思うとんじゃ。」言うたら「そりゃええやないか。」と言うから、「先生、この障害はなんと言うたらええんや。」と言うたら園長は「治ったから行け。」とは言わんかったなあ。
菌はいなくなったけどそれで治ったということは言えない、というところがこの病気のおかしいとこやね。そういったことが今度の黒川温泉(アイレディース宮殿 黒川温泉ホテル)の宿泊拒否にもあらわれてるな。
‘57年に退所基準いうのができた時に、やっぱちゃんと言わなあかんと思た。あの時、退所基準いうのは後の方で知ったんやで、わし。そんなこと知らんかった。手足に後遺症のない人、顔に後遺症のない人、それをクリアしたら退所基準をクリアしたということになるというふうなことを、後の方で、5,6年前ぐらいに知って、ありゃりゃ、そんなことやったか、そんなことやったらわし、よう受けんかったのにと思うけど知らんかった。
実はまあ、当時の厚生省も我々入園者にそんなにこう詳しく説明しなかった。あれ、課長通達かなんかで園の方へ行って、園からなんかそんなことも言うたかなー、いう感じぐらいのもんやった。入園者の中ではそんなにわいわい騒ぐようなことにはならんかったんで、みんな後遺症があって帰れんと思っとったんじゃないかなあと思う。
だからわしもそんな風な気持ちがあったんでしょうな。後遺症があって、病気が治ったという気持ちでよう行かんから園長に聞いたんやね。「先生、なんて言うたらええんや。」て。ほんなら「多発性神経炎言え。」言うたで、園長は。園長も「おまえ治ったんやから、治ったと言うて行け。」と言わんかったもん。な。