「感染病やったら菌がなくなったらそれで治った、言うてなにが悪いか。」と今やったら思うけど、当時、自分でも「ハンセン病にかかって治ったんじゃぞ。」ということはよう言わんかった。よう言わんような気持ちやった。
だから、結局5年足らず大阪におることになるんやけれど、非常に、なんか心が狭かったよ。
障害を隠せるぐらいの人やったらええんやで。でも、わしら隠されへんやろ、障害が多すぎて。多発性神経炎て、そんなもんどんな病気かわしもよう知らんけど、先生がそう言うから、名前だけは覚えて。
しかし、そんなことを言う機会もなかったな。そんなに、それどうしたんやとかなんとか言わんかったわ。あーそうじゃ、健康診断でお医者さんに言うたことあるわ、30なかばのお医者さんに。多発性神経炎て。「あーそうか。」とか言うて。あんまり詳しく聞かなかったから、やれやれと思うたぐらいなことやってんけど。
ほいで、同窓生が言ったタクシーの配車係が頭の中にあって、友達が大阪におったで、‘70年にそこに転がり込んで、なんかそんなもんないかなあ、と、友達には言うとって。
大阪は、万博の時分やったんやな、新聞の広告、求人欄見たら3ページぐらいあったよ。ものすごいようけあった。それを喫茶店で見よったら、その同窓生が言うた「配車係求む」いうのがあってねえ、「あーこれや。」言うて、それから、「よし、とにかくこれ行かやなあかん。」と思てね、それから、履歴書書く用紙を買うてきて、つづった。うそばっかりつづったよ、ほんとに。愛生の二字もそんなことよう書かんとね。
ほいで、結局、4年と5ヶ月ぐらいで社会復帰した。
しかし、正式やったら、復帰した時に退所一時金とかいうのがあったんだわ、あの当時。あの当時5万円くらいあったんかなー。そやけど、そんなものを正式に請求するには、何年か経験して社会で生活していけるという風に自信がつかなきゃダメよね。
ところが、「そろそろやっていけるかなあ。」と思いかけた時分やったなあ。公衆浴場で足の、右足の裏をべったりやけどしたんは。洗い場のところにこう、熱湯がもれとったそれがこう流れてそこへ足をひたしとった。そんで焼けた。
‘74年の7月5日。もう梅雨の終わりの暑い日やった。もうお湯も熱いし、そやけど背筋がこおるような思いがしたな。ざあっとして。ほいでこう、「こりゃだめやな。」と思うて。
風呂屋の前にあった喫茶店に入って、身のふり方を考えて。そいですぐ会社へ行って、「何も聞かずにやめさせてくれ。」言うて。そんなことで(社会復帰は)終わったんやけどね。
しかし、みんなの前でうそをついてというのは、心がやっぱり狭かった。今度は、今度社会復帰する時は、皆ともいつわりなしに、ありのまんまの自分で来たいと。そういうことで、きたからね。
先ほど言うたような、吉田弁護士のそんな話やら、課長さんのとりなしてくれたことやらがあって、わし、恵まれとんじゃないのかなと思うほど、素直にここの住民になっとるけどね。
この4月から、ここの町内会の班長かなんかやることになっとんだよ。4月から。うん、こんなんでできるんかな言うたら、「うんうん、いい。」とか言うとるから、ほんならやろうか。て。