少年時代、18才ぐらいまではわりと元気やったんじゃわ。でも、野球やったり、農作業しよって、ちょっと栄養も悪いことから、急に悪なって。ちょうど少年舎というとこから青年舎へ移ったときの、そういった気苦労もあったんかしらんけれど。
その前の‘50年に、わし1回だけ帰省したんや。その2週間ぐらいもらっとった帰省から帰ったら、とたんに。帰ってきたら収容所ゆうところに入らなあかんことになって、1週間ぐらい、そこでぱーっと手がまひしてね。ほんでもう、それっきり野球はできんようになったわな。ふるさとではキャッチボールくらいしたんやけどね。
それであけて‘51年4月に少年舎から青年舎に行って。やっぱり体は悪うなるし、それに自治会の購買部の書記にいくことになっとったしね、そんなことで気苦労もあったんかなあ。
ほいで5月には、つきそい作業いうのが来るんじゃ。10日間くらい、不自由者の世話をしにいかないかんのやけど、1週間ぐらい行った時に、もうわしの体は耐えられんようになって、結局そのままわしもベッド生活に入って。
それから急にどんどん悪なって、ほんでまあ、体中が神経痛やね。一時もこうじっとしておれんのや、体の神経がこうして痛くて。もうもう、ほんまにのたうつ、いう感じをどのぐらいしたかなあ。5月7日に入院して、そうやね、その年の暮れぐらいには止まっとったなあ。
治療してくれへんのやで、そいで。
まあ、治療の方法もなかったんかな、と思うんやけどなあ。特に栄養のあるものを食べるわけやない。それと喉頭まひと、顔がはれて目が見えん。目が悪いていうより、まぶたがはれて、もう目が見えんようになっとった。ほいで、その喉頭まひであんまり食べれんから、やせて、37キロぐらいまでなったこともある。座れんかったからなあ。畳が痛うておしりがつきささるようで。
その時に初めてわし、子どもの時は、そんなに愛生園に行った事を悲しいとは思ってなかったけどな、そのとき初めてほんとにこりゃ自殺しなきゃあかんかな、と思った。初めて。
それまで、愛生園の中では元気な方できとったんだけど、一気にがたん、と。自分が世話してもらうような身になって、わし不自由舎いうところへ行こう思って言うたけれど、みなが「いやいや、もうちょっとおれ。」とか言いよったので、うまいこと、結局青年舎で生活しとって。
結局‘53年の予防法等々で高校ができるんですわ。そいで青年舎からわし、高校へ行ったんじゃわ。まあ、そんなに不自由になって、高校なんてこと考えてなかったけど、中学の先生が来て、行ってくれ言うから行って。で、通って。
わしが社会へ帰りたいという気持ちを持ったのは、その高校にあったんだよね。
4年で卒業する時に、同窓会をしようやないか、4年間の学校やから、4年ごとに1回ずつやろういうことにして。
‘59年に卒業したから‘63年やったんかな、第一回の同窓会したら、卒業してすぐ大阪に出てきとった同窓生のひとりが、「川島さん、今わしがやっとる仕事やったら、あんたかてできるよ。」言うて。それは、タクシーの配車やったんやけど。
大体4年間も一緒の教室におったら、その力量とかそんなこと分かるわね。だからなによりも、その励ましっていうかなあ、その一言がわしに「社会復帰したいなあ。」と思わせた。
それまでも、漠然と帰りたいという気持ちはあったよ、一回は外で生活してみたい、という気持ちはあったけど、その一言で「よし!わしも行こう。」いうふうな気持ちになって。
高校出てからちょっと、自治会の役員をしとったんやけど‘63年の選挙に落っこちてねえ、働きが悪かったんかなあ。
その時は‘53年の「らい予防法」改正闘争があって、園長がおったからこそ、療養所があって我々が生きれたということで『園長を守る会』と、園長に辞職を勧告する『園長はやめてもらわなあかん会』すなわち革新派と2つの流れが出来て、その対立がまだずーっと残ってる状態で。まあ、わしは園長に退任してもらいたいという風な人たちとつきあいが多かったけどな。
しかし、‘52年から‘53年にかけての闘争では病気もまだ悪くなってちょっとの時やし、自分は自殺しなきゃいかんという風なことばかり考えていたということやから、あんまり、積極的に運動によう参加せなかった。大きな流れやったけど、頭の上をずわーっとそういう風な運動が過ぎていくような感じでとらえとったけどね。
革新派の支援を得ていた方が自治会の役員選出に落ちたんやな。まあしかし、役員選出に落ちたことについては、わしもあんまり役員には向いてないし、と思うような気持ちもあった。