小学校は、6年に編入されて、ほんでわしの入っとうとこは5人、女が2人やった。
学校の遅れてる人が多かったんやね、学校行かんかったりなんやして。
それで、わしらのクラスでは男が1人、女が1人、2人ほど年上やったんかな。やっぱり2つ上やったら、ずい分色んなことも知っとるし、なかなかこんなんかなわんわ、と思うほど頭のいい子やった。その女の子なんか。若くて死んでしまったけどね。乙女寮行ってすぐ死んだなあ、あの子は。文章なんか書かしたらとても上手い才能のある子やったのにな。死んでしまった。
患者さんで先生の経験のある人や、女学校とか中学校とか昔そんなんとこ行った人が先生やった。
わしがちょうど尋常高等小学校卒業するときに、‘47年や、学制の切り替えで中学校ができてん。それでわし、中学校へも行ったんや。そん時に健常者の先生が1人入ってきてね。ほいでその先生に卒業させてもらった、
未感染児童のおるところが同じ島で第一小学校、第一中学校やった。それでわしらのところが、第二小学校、第二中学校。
だから島にはね、職員の子、未感染児童の子、ほんで病気になったわしら、と子どもがおったわけやねん。未感染児童の子は第一小学校、職員の子は本土の学校に行ってたけど、後になってみたらなんでかなあ、と思うわ。黒髪小学校ではあんな問題(未感染児童が地元の黒髪小学校で通学を拒否された事件)もあったんやからな。愛生園では大きな問題になるようなことはなかったね。
療養所の中でいちばんつらかったのは、食事のことや、腹が減るやね。ひどかったよ。
最初は。だってもう、10ヶ月もたったら終戦、いうときやったやろ。
このまえ姉なんかに会うた時「うちら百姓やったけれども、百姓やって大変やったわ。」いうて言いよったけど。そらそうやったかもしれへんけどね。
まあいずれにせよ、周囲16キロのあの島に愛生園2800人、ほんで光明園やって1000人くらいおったはずや。そのときに。職員がまた、少ないいうても300人くらいはおったんじゃと思うな。愛生園で。向こうには200人くらいおったんじゃないかのう。
冬になっとったき、元気な人たちはまだ、開こんしてね,畑をつくって、作物をつくったりできるけど、不自由な人はなんにもようせんやろ?残飯をあさりよったのがよう見かけたなあ。残飯に芋のしっぽみたいなもんがないかとか、そんなことでそういうもの持って行ってまた煮るんでしょうなあ。ほんとにもう地獄のような感じやったなあ。