自分がいつ病気になったかというのがはっきりしないっていうのがこのハンセン病やねん。
斑紋ひとつぐらい出るんでしょうな。それも分からんのやね。だからわし、今考えれば親がもうちょっと、子どもの体をやね、たんまには見てやるとか。ま、一緒に風呂に入るのがいいと思うけれども、わしゃ、兄貴おったから兄貴と一緒に入りよったから、そんなこともなかったわ。親と一緒に入ったっていうようなことは。
だから、わし、ほんとは小学校4年生ぐらいで発病してたんだと思うんですわ、今から考えたら。
5年生の時ですよ、ひじから血が出たんや。そんでも痛くなかったんや、血が出たのに。親父に「ひじから血が出たけど、痛くないんじゃ。」言うたら、親父が低―い声で「ありゃ、姉といっしょの病気になったんかなあ。」言うたのが非常に印象的で。
意味はようわからんかった、どんな病気かなようわからんけど、親父のその低―いつぶやくような声が妙に音として残っとったがね。
姉は‘40年に、高槻の軍需工場みたいなところあったんじゃわ、そこへ就職しやったんやな。
だから、尋常高等小学校出て、(高槻に)4月に出て、5月15日が入園になっとるから、すぐに発病したみたいやねん。
その姉によると、朝起きたら顔にわーっと斑紋が出ててびっくりしてそんで阪大の先生に診てもらったら、その病気(ハンセン病)やゆうことで愛生に送られたらしいな。
わしがひじから血が出たいうのは‘43年やから(姉の発病は)‘40年ぐらいやろねえ。
‘44年10月1日に母親がなくなってね、それで、姉が初七日ぐらいに帰ってきたんやわ。
母親が亡くなった後大人たちがぼそぼそ言いよったよね、姉が帰ってくることについて。
そやけど、妙に話し声が低いからあんまりええところには行ってないんかな、いうふうなことは感じとったけどね。
結局、姉とわしは父親に連れられて、愛生園に行った。
10月の28日が入園日やから、徳島で一晩泊まったからなあ、26日ぐらいに(家を)出たんやな。10月の26日の、まだはっきり夜が明けてない時分やったからね。そのちっさな山の村ではひぃやりと、なんか冷たい感じやったな。
足と手がちょっと悪かったんや、わし。それでも不自由というものを感じてなかったわけ、野球もやるぐらいやったから、元気やったんじゃあ。体的には痛いとかそんなん全然なかった。
愛生園入ってしたら婦長さんみたいな人が言うねん、最初に。
ま、みんなにも言うらしいけどな「あんたの病気は軽いから、もう、2年もしたら帰れるからね。」とか言うて、なぐさめてくれるわけよ。
しかし、少年寮に入って周囲を見渡したら、どこが病気か分からんような人がもう3年とか5年(療養所にいる)とかいうんじゃわ。
そんなことで、やっぱりこれ、帰れんのかなー、ということ学んでいくような期間があるねえ、やっぱり。