わしは中学校を卒業してからは、2年間くらい少年舎におって、朝ずっとと、昼からちょっと、農作業があるんだわ。大体4アールぐらいの開こんしたところがあった。少年舎農園いうて、望ヶ丘いうところやった。それは園長がつけた名前やったんやけど。大体少年舎ていうより望ヶ丘いうてた。その山の上に大きな岩があってね、そこに望ヶ丘てこう打ってある、誰かが彫ったような、そういうとこ。
そこの山をざーっと斜面を4アールほど耕して、それでわしら肥やしを担いであがらないかんわけや。木でつくった桶があって、友達と、それに肥やしを、人糞を担いであがるわけや。それで足がわし、悪いやろ。後ろに一緒に担いどる人のところに、もれるんだよな。ちゃんぷちゃんぷ。それが嫌やったな。
あの当時、服は自分の持ってきたものやし、靴なんかは、なにをはいとったかよくわからんわ、ねぇ、そんなんもう、ろくなものないんだわ。
靴なんていうのは。もうちょっとして‘50年ぐらいになって、ゴムの短靴をひとつくれたことはあるけどな。まだわしは元気やったからええけど、それをやっぱり不自由な人たちも(農作業を)やりよったんやわなー。つらかったんじゃないかなあ、思うよ。
それから農作業しながら野球やったことがたたって、悪くなって、高校ができて、高校へ行ったでしょ。
それから自治会の役員を‘63年までやって。で、それが落選して、ちょうど整形医が来たこともあって、‘70年に千里の万博があって、四条畷のタクシー会社に就職するわけや。
そこはほんとは、まあまあわしも略しとるけど、1年しかいなかったわけよ。結局運転手といっしょに寝よったんやけど、寝不足で頭が痛ぁなってね、こんなことしよったら体壊すなあて思って、病気というかそりゃ本病という話でなくて。
本病言うのもおかしいわけ、医者が治ってる言うたんやから。
しかし、なんも治療せんのやで、わし。わーっと体が悪なって、その時は特にその喉頭まひでご飯が食べれんから37キロまでやせたけど、特に美味しいものとか栄養のあるものとかくれんかったなあ。あの時は。なかったんかなあ。
点滴はあったけど、あの時は点滴したらもう死ぬ、もう亡くなっていくような人に点滴しよったんやね。その当時は点滴したらもう死人やで、みたいな、そんな感じに点滴してやるような感じやったね。だからまあ、今はちょっと風邪引いたら点滴してくれるけどねえ。でも、その当時、点滴なんかもほんとはあったんじゃからなあ、やってくれたらよかったけど。
お医者さんも、おまえはいい球投げるなあ、てその時はちやほや言うてくれたけど、‘44年、あのときに、療養所へ行かなければ、足が悪いのに、人前で野球をするようなこともないしな。そしたらずっと元気でおれたんじゃないかなあと思うたりしてな。(野球や農作業や)そういうことがあったからわし、体が悪くなったんじゃないかと。で、16,7,8(才の頃で)負けん気もあったしね。みんなにちやほやされて、いい気になって一生懸命やったんよ。
ほいで、‘47年からプロミン(ハンセン病の治療薬)の実験が始まったんじゃわな、日本でも。
‘49年、‘50年ともなればプロミンの効果もずっと出てきよった時やからね。
お医者さんに「あれだけ新しい薬が出来て、ずっとここにおらんでもええような時代が来るんやぞ。」ていうふうなことを言うて、治療とかそういうことに関心を持つように言ってもらいたかったな、思たけど、そういうことはなかったよね。そんなん、全然なかったな。
だからほんとに早く、死んでもらいたがってたちゅうか、長生きしてもらいたいとかそんな配慮はなかったんじゃないかな、と思う。