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・・令和元(2019)年度 第3回・・



多様化、複雑化する外国人支援に尊厳を守る視点を


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カトリック大阪大司教区

社会活動センター シナピス課長

松浦・デ・ビスカルド篤子さん






sub_ttl00.gif 宗教の違いを越えて


 カトリック大阪大司教区社会活動センター・シナピスは、さまざまな事情で来日し、困難を抱えた外国人を支援する活動をしています。専従の事務局員を置いたのが1992年。私は93年にスタッフとして加わりました。ただ、カトリックの教会なので、それまでも国籍を問わず、多くの方が逃げ込んでこられていました。

 逃げ込んでくる人が一気に増えたのが1980年代。フィリピン人女性たちが大阪の歓楽街でパスポートを取り上げられるなど監禁状態で働かされるということが多発した時期です。教会の敷地内にある施設で一時的に保護するシェルター活動も始めました。

 シナピスが生まれる背景の一つは90年の入管法改正により、日系3世まで就労可能な地位が与えられ、ペルーからの入国者が増えて相談も増えたことです。また、大きなきっかけが91年に起きた湾岸戦争です。アフガニスタンからの難民をはじめ、イスラム系の人たちが直接来られるようになったのです。宗教の違いを越え、きちんと受け入れ態勢を整えようと教会内の組織を改編し取り組みました。更に、組織の名称を「シナピス」とし、現在に至っています。



sub_ttl00.gifひとりひとり違う困難に寄り添う

 
 さらに大きな転機となったのが2001年に起こったニューヨーク同時多発テロです。首謀者とされたオサマ・ビンラディンが潜伏しているというアフガニスタンに突然スポットが当たり、私たちが支援しているアフガン難民への取材が殺到しました。それまでメディアに働きかけても反応が薄く、情報発信に苦労していたので、これで難民問題への注目が高まるかと期待しました。ところがむしろ逆で、中東系の人たちへのまなざしや差別が厳しくなり、少しずつ増えていた難民認定の数が一気に落ち込みました。時の社会情勢や政治に翻弄されるのを痛感します。

 その後もシナピスへの相談は増え続け、相談者の出身国も多様化しました。現在では20カ国ほどに広がっています。言語の問題もありますが、幸いカトリック教会には外国人の宣教師がいるため、そのネットワークで何とか対応しています。私たちのような相談解決型NGOが大変なのは、課題が十人十色で多様であること。ケーブルテレビの契約方法からDV被害の相談まで、実に幅広く、でもそれぞれに本当に困っているのです。それらをひとつひとつ、役所への同行したり契約に同席したりしながら解決してゆきます。



sub_ttl00.gif「いない」ことにされている人たち

 
 なかでもビザが切れたオーバーステイの人や無国籍の子どもが抱える問題は深刻です。住民登録がないため「いない」ことになっており、生きるために必要な制度や保護が受けられません。

 特に日本人男性と外国人女性との間に生まれた子どもたち。何とか支援につながって家を訪ねてみると、真冬に電気もガスも切られ、真っ暗な部屋で母子が震えているのです。住民登録どころか国籍もなく、教育も受けられません。父親には元々家庭があり、認知もしないまま逃げてしまったというケースが少なくありません。

 妊娠中に相手の男性が逃げ、出産間近になって助けを求めてくる外国人女性もいます。とにかく安全な環境で出産させることができても、その次にどうするのか。一度つながったら5年10年とフォローが必要な人ばかり。なかなか相談ファイルを閉じられません。

 2008年12月に国籍法が改正され、日本人の親の認知があれば両親が婚姻関係になくとも子どもの日本国籍の取得が可能になりました。これは日本人の父親とフィリピン人の母親との間に生まれた新日系フィリピン人(Japanese-Filipino Children/JFC)の基本的人権の保障を求めた当事者運動の成果です。

 ところがこの法律を悪用した人身取引がおこなわれるようになりました。子どもが小さければ母親にもビザが出るため、若い母親と子どもがブローカーに「会社や工場で働ける」とそそのかされ、希望をもって来日するのです。しかし実際は軟禁状態で望まない仕事をさせられます。2014年から2015年にかけて岐阜県を拠点に組織的な人身取引がおこなわれ、助けを求めてきた人たちをシナピスでも受け入れました。それがきっかけで、現在は岐阜県から業務委託で人身取引の被害者支援を請け負っています。


sub_ttl00.gif当事者の意思を尊重する支援

 
 本当にさまざまな困難を抱えた人たちと出会ってきたなかで、「支援者」として頭を打つこともたくさんありました。少し経験を重ねると、つい「助けてあげている」という気持ちになってしまいます。感謝されるのにも慣れてきます。「支援する側」と「される側」、しかも日本社会で圧倒的に立場の弱い外国人の人たちとの関係は究極の強者と弱者と言ってもいい構図です。

 つい傲慢になってしまう私の鼻をへし折ってくれたのが、ペルー人の夫でした。度々「何を偉そうに」と指摘されます。一番身近な「外国人移住者」である夫が、当事者の思いを根気づよく教えてくれたのはありがたいことでした。たとえば日本国籍を持つ者として権利を保障されている私たちは、オーバーステイの人たちに対してつい「法を侵している」「どうして自分の国へ帰らないのか」と思ってしまいがちです。しかし夫は「食べるためにはどこまでも人は動く」と言います。

 その言葉に、私たちは空腹は体験しても飢餓は体験していないのだと痛感しました。明日のない世界から海を越えてやってきた人たちに対する共感と尊敬をもつべきだし、それをベースにした支援が求められているのだと思います。また、多文化共生と言いながら、外国人の人権が守られていない社会の在りようを認識すべきです。

 言葉や文化の違いから多少の行き違いが生じたり、時間がかかったりしても、まずは相手の意思を確かめ、気持ちを聴く。それは国の法律でも私たちのような団体の支援でも、地域でともに暮らすためのコミュニケーションでも同じです。そういったことをふまえ、外国人の側にたち発言していける"日本人"が増えること。外国人と、そしてそこにある様々な課題の解決のため社会や地域とをつなぐ人が増えていくことが重要だと感じています。

(2019年11月掲載)