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・・・令和元(2019)年度 第2回・・・


国と市民が一体となったハンセン病への差別。

その本質としっかり向き合う社会をめざして。


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 れんげ草の会
(ハンセン病遺族-家族の会)
 副会長

(ファン) (グァン) (ナム)さん



sub_ttl00.gif 国の威信のために「つくられた病気」

 ハンセン病はらい菌への感染により発病する病気で、ずっと昔からある病気です。患者は嫌われながらではありますが、地域の中で生きてきた歴史があります。社会の対応が激変したのは明治に入ってからでした。1907年に制定された法律「らい予防に関する件」で放浪している患者をハンセン病療養所に隔離することを定め、1931年に制定された「癩予防法」ではすべての患者を療養所に隔離するという政策がとられました。これと前後して推進された「無らい県運動」により、ハンセン病に対する恐怖心が煽られました。これが厳しい差別を生み出した一番の原因だと思います。ハンセン病はいわば隔離政策によって「特別につくられた病気」と言えるでしょう。

 なぜ隔離という手段がとられたのか。法律がつくられたのは明治に入り、日本が世界に打って出ようとする時期でした。大国になるには西洋のように植民地をもつと同時に国内は美しくなくてはならない。進行すると体が変形し不自由になるハンセン病患者がまちにいるのは国辱と考えたのではないでしょうか。ですから人里離れた場所に療養所をつくり、患者たちを押し込めた。また、療養所では症状の軽い患者を働かせる「患者作業」や子どもをつくらせない「断種手術」、患者と職員の居住場所を切り離すなど人権侵害もまかり通っていました。人目につかないという立地は、人権侵害をするうえでも都合がよかったのでしょう。


sub_ttl00.gif 断絶された家族の「心の距離」は埋まらなかった

 在日朝鮮人一世の両親は、十代でこの日本へわたってきて、私は大阪府吹田市で生まれましたが、私が生まれた直後に母はハンセン病を発症しました。まず母と下の姉が長島愛生園に入所させられ、1歳だった私は岡山市内にある育児院に入りましたが、その1年後に父と上の姉もハンセン病と診断され長島愛生園へ入所しました。両親や姉たちと再び暮らすようになったのは小学3年生の時です。長く離れていたため、「家族」という実感がどうしてももてず、甘えることもできませんでした。

 2001年、「らい予防法」違憲国家賠償請求訴訟で原告となった回復者たちが勝訴しました。翌年から退所者給付金が出るようになり、両親も生活の不安からは解放されました。しかし私たち家族の「心の距離」は埋まらないまま、両親は亡くなりました。家族が引き離され、本来築けるはずの人間関係が築けなかった。両親はずっと寂しさを抱えていたのではないかと思います。それは私自身も同じです。


sub_ttl00.gif 地域で家族が受けたすさまじい差別

 2016年、ハンセン病回復者の家族たちが集団訴訟を提起しました。キーになったのが「れんげ草の会」という回復者の家族会です。私は2005年から参加するようになりました。20人にも満たない小さな会でしたが、家族にハンセン病の患者がいたことを配偶者や子どもにも話せず、苦しい思いを抱えた人ばかり。年に一度集まり、それぞれの思いを聞き合う「癒しの場」でした。

 家族の苦しみというのは、この「誰にも話せない」ということです。家族がハンセン病だとわかった瞬間、本人はもちろんですが、家族もひどい差別にさらされます。たとえば家族が療養所へ隔離された家は、家中が消毒されて真っ白になります。まるでハンセン病患者が出たことを知らせるためにやっているようなものです。すると周りの態度がガラッと変わるのです。職場を解雇される。学校へ通っていた子どもたちは友だちからいじめられる。買い物に行けば、目の前にある商品を売ってくれない。地域ぐるみですさまじい差別をするわけです。

 たまりかねて引っ越しても、どこかで聞きつけられたらまた同じようなことをされます。だから徹底的に隠すしかない。療養所にいる家族との関係を完全に絶つしか、身を守る術がありません。回復しても「帰ってこないでくれ」と言う。さらには死んだことにしてしまう。そうしないと自分たちが社会で生きていけない。これが家族の苦しみです。


sub_ttl00.gif ハンセン病問題の本質は「差別する心とどう向き合うか」

 裁判に勝てるかどうかよりも、家族がどんな苦しみを味わってきたかを訴えたい----。その一心で家族がつながり集団訴訟を起こしました。小さな家族会が原点でしたが、最終的には一次と二次を合わせて568名の人が原告として参加しました。しかし実名を公表したのは数人にとどまりました。今でも差別が残っているからです。

 裁判では国に謝罪や損害賠償を求めましたが、国だけが悪いのでしょうか。確かに隔離政策を打ち出し、恐怖心を煽って市民に協力させたのは国です。しかし市民も差別に加担したのです。患者がいると通報し、残された家族を地域ぐるみで差別、排除した。市民のみなさんには、そのこととしっかり向き合ってほしいと思います。感染症に対する無知や偏見がどんなに人を傷つけていくか、ハンセン病の教訓から学び、活かしていくことが必要です。

 また、現在、ハンセン病の感染力は弱いことや特効薬で完治することが知られています。しかし、だからハンセン病の問題が終わったとは言えません。感染力の強い、特効薬のない病気なら、かつてのハンセン病のように隔離し、人権侵害がなされてもいいのでしょうか。そんなはずはありません。

 人間は、正しい情報や理屈があれば間違いを犯さないというものではないようです。「わかっていても、あの人たちは怖い」という気持ちをどうやったら変えられるのか。これまでも啓発は行われてきましたが、いまだに偏見や差別はなくなっていません。いま改めて偏見や差別をなくしていける啓発とは何か模索していく時なのでは、と思っています。知識だけ、1回だけの学習だけでなく、当事者に出会いその声を聴く、継続した学習をする等様々な取り組みにより、自分事としてハンセン病に向き合える市民を育てていく必要があります。

 また、ハンセン病家族訴訟では文科省と法務省の責任が認められました。教育と法律で「差別を許さない社会の空気」をしっかりとつくってほしい。私たち家族の活動もまだまだ続きます。

(2019年10月掲載)