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・・・H30(2018)年度 第5回・・・

在日コリアンの視点から考える、「違い」を尊重する社会



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在日コリアン青年連合(KEY)

渉外広報部長 李明哲 さん

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なぜ「在日コリアン」が存在するのか


 僕は在日コリアンです。日本で生まれ育ちました。いろいろな人と出会うなかで、なぜ日本に在日コリアンが存在するのかを知らない人が少なくないと感じてきました。特に、路上やネット上で「朝鮮人は自分の国へ帰れ!」などと攻撃するヘイトスピーチを目にするたびに、歴史を学んでいないことが差別につながるのではないかと感じています。

 まずはごく基本的なことをお伝えしたいと思います。日本は1910年から1945年まで、35年間にわたって朝鮮半島を植民地支配しました。そこに暮らす人たちから土地や仕事を奪いました。朝鮮人は生きるために日本へ渡りました。兵士や炭鉱をはじめ、きつい仕事のために無理やり連れて来られた人もいます。日本では、日本人との賃金差や暴力など日常的な差別がありました。

 1945年、日本の敗戦によって朝鮮半島は「解放」されます。しかし南北分断の混乱や持ち帰る財産の制限などがあり、帰りたくても帰れない人が60万人にのぼりました。この人たちが「在日コリアン一世」となります。1950年には朝鮮戦争が起こり、朝鮮半島は2つの国に分断されます。在日コリアンはますます「帰れない」状況になりました。

 戦後、在日コリアンは日本国籍を喪失します。戦死や戦傷への補償や社会保障もなく、指紋押捺の義務や就職での「国籍条項」など「外国人」として管理されました。粘り強い運動の結果、少しずつ改善が進み、1991年から在日一世とその子孫は「特別永住者」と認められるようになりました。




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 分断と孤立が「新しいレイシズム」を生んだ

 差別の根底には、「違い」に対して優劣をつける意識があります。一世や二世の時代は食文化や生活習慣をはじめ「違い」に対する露骨な差別がありました。今は目に見える差別は一見少なくなったように思います。しかし「違い」を認め合い、尊重しあえる社会になったとは言えないと思っています。たとえばヘイトスピーチは、在日コリアンがもっている通名や特別永住資格などを歴史上の経過を無視して「特権」だと言います。そして日本人である自分たちは「不当に権利を奪われている」と主張します。

 とてもねじれた主張ですが、この背景にはマジョリティの中にも経済格差が生まれ、分断されている現状があります。むしろ、生きるために団結し助け合わなければ生きられなかったマイノリティのほうがコミュニティやネットワークによって支えられている。そのことにマジョリティが苛立っているようにも見えます。朝鮮人を劣った存在として差別するのがいわば「古いレイシズム」だとすると、歴史的には加害者だったマジョリティが反転し、強い被害者意識にとらわれているという「新しいレイシズム」といえるのではないでしょうか。

 「同化」への圧力も感じます。たとえば「今はグローバルな時代なんだから、民族みたいなところにこだわらず、人間同士でやっていこう!」と、文化を奪われルーツを差別されてきた歴史的な経緯を無視して「同じ人間だ」と言ってしまうことがあります。「同じだ」と言うことで平等や公平を実現できるという考えです。「差別的」とは言いにくいのですが、マジョリティの立場から押し付ける「同化」は、「違い」を尊重しあいながらともに生きる「共生社会」とは言えません。




sub_ttl00.gif  「違い」を尊重するとはどういうことか




 僕は小学2年生まで「国本明哲(くにもと あきのり)」と名乗っていました。ある日の授業で、日本と朝鮮半島の歴史を学びました。担任の先生は人権教育に熱心で、日本が朝鮮半島を植民地支配していたことと同時に、「人と違うのは恥ずかしいことじゃない」と教えてくれました。クラス全体でそれを理解し、在日コリアンに対しても「日本とは違う文化をもつ人たち」といったポジティブなイメージを共有しました。その授業の後、担任の先生が僕の気持ちを確認したうえで「イ ミョンチョル」という本名とハングル文字を教えてくれます。名札も本名で用意してくれました。

 後で知ったのですが、先生は事前に両親と話し、僕が本名を名乗ることについて了解を得ていたそうです。両親も通名を名乗り、特に民族的なことを話したり教えられたりしたこともなかったので、それが自分のルーツとの出会いとなりました。クラスメートが年賀状に正確なハングル文字で名前を書いてくれたのがとてもうれしく、今でもよく覚えています。この経験からも、どんな教育を受けるかがとても重要だと思います。

 そして、「違い」を尊重するということについて考え続けることも大事です。相手を属性ではなく、その人自身としてみる。「個人」と「個人」の信頼を大事にする。同時にその人がもつルーツや背景に思いを馳せ、尊重する。「人としての尊厳」という意味では「同じ」でも大事にしている文化や価値観は「違う」ので、常に両面を考える必要があるのではないでしょうか。




sub_ttl00.gif  在日コリアンの可能性を生かして

在日コリアンは、時として「自分は何人なのか?」と葛藤します。しかし大きな可能性をもっていると僕は考えます。まず、日本と朝鮮半島、それぞれの文化や政治を知っていること。つまりお互いの交流や理解の「架け橋」となれます。そして日本や韓国、北朝鮮のどの国にも「属しきれない」存在であることから、「国」と「個人」とをわけて考えます。そこで政府が国民、市民に対してどのような姿勢であるかを敏感かつ客観的にチェックすることができます。さらに、ほかのマイノリティ(女性、障がい者、セクシュアル・マイノリティなど)への共感があり、共生社会に向けて連帯することができます。僕自身、民族的にはマイノリティでも他の面ではマジョリティであり、無自覚的に傲慢になっていたり、無知でいることが当たり前になってしまったりすることの問題を日々、教えられています。

こうした可能性をどう生かしていけるか。さらに考え、行動していきたいと思います。



H31(2019)年1月掲載