人権インタビュー

「差別をしない」だけでなく「もし差別されたら」という視点を
北口 末広(きたぐち すえひろ)さん
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戸籍謄本等不正取得事件について
 北口末広さんの写真

戸籍謄本等の不正入手事件が最初に起こったのは1985年の8月です。このときは存在しない人物名を騙り、弁護士・行政書士といった有資格者になりすまして不正に取得していました。当時はそうした方法で他人の戸籍謄本等を取得できたのです。この事件を契機に、以降は職業を詐称されないよう、弁護士、行政書士など戸籍法施行規則第11条に明記されている8つの資格職の団体は専用の請求用紙を作成しました。その結果、戸籍謄本等の取得の際には職務上請求用紙がなければ取得できないようになりました。
しかし2004年末に発覚し、今も解明が進められている不正取得事件は、請求用紙を持っている司法書士や行政書士に依頼したり、あるいはそれらの人から用紙を購入して戸籍謄本等を不正に入手するという構図になっています。また本人やその代理人になりすまして入手するケースもあります。 本年2月に摘発された名古屋の興信所は、被害者本人の委任状を勝手に作成し、代理人になりすまして不正取得していました。愛知県警の家宅捜査でその調査業者の事務所には1500個の印鑑があったと報道されています。ですから、かなり大規模にやっていたと推測できます。
こうした戸籍謄本等の不正取得は容易には発覚しません。被害者自身が自身の戸籍謄本等が無断で取られていることが分からないからです。名古屋の事件が発覚したのも被害者のある疑問からです。交際相手の女性が自分のことを非常に詳しく知っていることを不審に思った被害者が、情報公開条例等を駆使して調べた結果、「委任状を持った人が被害者の戸籍謄本等を取りに来た」ということが判明し発覚しました。

戸籍謄本等不正取得と「部落地名総鑑」

戸籍謄本等不正取得事件は根の深い問題です。なぜ戸籍謄本等が調査に必要なのでしょうか。それらを解明する必要があります。戸籍謄本と「部落地名総鑑」がクロスするところにあるのは、部落差別調査以外の何物でもありません。
「部落地名総鑑」差別事件とは、1975年に発覚した事件で、全国の被差別部落の地名を掲載した差別図書「部落地名総鑑」が販売され、企業などが購入していた事件です。これらの事件に関して法務省が調査を実施し8種類の「地名総鑑」を確認するとともに、判明した発行者や購入者に勧告しました。1989年には法務省から同事件の「終結宣言」が出されましたが、2005年12月から2006年1月にかけ戸籍謄本等不正入手事件の調査の過程で、大阪市内の調査業者から第9、第10の「地名総鑑」が新たに発見されました。
30年前に発覚した「部落地名総鑑」差別事件で問題になったのは、就職差別を目的に「地名総鑑」を購入していた大手企業の体質と調査業者の差別体質です。当時は就職に際して本籍地を詳記するようになっていましたから、本籍地と「地名総鑑」を照合することで部落出身者かどうかを調べていました。
その後、1999年12月1日施行の職業安定法に個人情報保護規定が入りましたから、今日ではこうした就職差別の調査は減っています。本人の同意がない限り、企業は能力・適性についても調査できないことになっています。今回発覚した戸籍謄本等取得事件は、結婚調査をはじめとする身元調査やその他の調査に使われていたと考えられます。
現在の部落差別でもっとも重要な問題の一つは結婚差別であり、その前提としてなされる差別身元調査です。ただ大阪府では、調査業者が部落差別の身元調査を行うのは「大阪府部落差別調査等規制等条例」違反になります。そのため興信所は部落差別調査の結果については調査報告書に書かず、すべて口頭で報告しています。証拠を残さないためです。

自覚なき被害者

戸籍謄本等不正取得事件については、おそらく多くの人が“自覚なき被害者”になっていると思います。たとえば、結婚に際して相手方の身元調査を依頼し、その中に部落差別調査が含まれていた場合、調査報告として返ってくる回答の圧倒的多数は「同和地区の出身ではありません」というものでしょう。しかし、たとえ調査結果が「そうではない」という場合でも、その調査は明確に部落差別調査です。その差別身元調査の関係者に被害者である被差別部落(同和地区)出身者はいませんが「同和地区出身であるかないか」を調べることそのものが差別調査なのです。それらの問題の被害者は多くの同和地区出身者ですが、問題が明らかになることはほとんどなく、差別身元調査の依頼者も相手が「同和地区出身でなくて良かった」ということで終わってしまうのです。残るのは被差別部落への差別意識と差別調査の慣行です。
戸籍謄本等の不正取得は同和地区出身者にとっては差別調査に直結する問題であり、同時にプライバシーの侵害です。同和地区出身者以外の人々にとっても明白なプライバシーの侵害ですが、事件が明るみに出ることはほとんどありません。
ところで「地名総鑑」事件の取り組みが進められた結果、部落差別身元調査や同和地区の一覧表の提供等を調査業者が行った場合、大阪府では先にも指摘したように条例違反になりますが、全国的には違反になりません。かつて第7の「地名総鑑」(7番目に発覚)を作成した東京のH調査業者は「作成・販売してどこが悪いのか」と開き直りました。大阪府の条例も規制の対象を調査業者に限っていますから、個人が無償で調べて提供すれば罪に問えないのです。

原点にある差別意識

「地名総鑑」事件の根本的な解決は、部落差別の撤廃以外にあり得ません。部落差別と「地名総鑑」は、戦争と武器の関係に似ています。誰もが「戦争はいけない」と思っていれば、いくら武器があっても使わないでしょう。しかし相手の民族を「攻撃したい」と思ったとき、武器が刀や槍しかなければ犠牲者もそれ程出ませんが、そこにマシンガンや戦車、ミサイルがあれば大量の人が死ぬでしょう。「地名総鑑」というのは差別のための強力な武器だということです。武器があることで戦争、すなわち差別意識が助長されるのです。
大阪府の2005年府民意識調査でも、9割以上の人が同和地区の存在を知っており、かつ結婚のときには同和地区出身であるかどうかを気にする人が2割前後に達しています。部落差別に基づく結婚差別の前提に、これらの差別意識が前提としてありますが、仮に差別調査の手段が存在しなければ、結婚差別撤廃のために積極的な影響を与えることができます。
いずれにせよ、差別の原点は多くの市民が持っている差別意識です。企業の場合はこの30年間にずいぶん変わってきました。生まれや家柄ではなく、能力・適性で判断する方向になってきています。結婚においても本来は、それぞれの個人の人格や性格、識見等で判断することが当然でしょう。それ以外の本人に決められないこと、努力のしようのないことで判断するのは間違いなのです。
結婚差別においてもほとんどの人が差別をしていた時代がありましたが、それらを減らすことはできたと思います。しかし数が減ったとしても、差別を受けた個々の人にとっての痛みは同じなのです。

自己情報コントロール権の重要性

日本の戸籍制度というのは、世界でもほとんど類をみない特殊なものですし、制度をなくしてあまり差し支えない制度だと私は思っています。しかし、たとえ戸籍制度を前提にしたとしても、自身の戸籍謄本等を不正や無断で取られたときに本人が分からない、というのは重大な問題だと思います。
戸籍謄本等が誰に、どのような目的のために取られたかを明らかにすることができる「自己情報コントロール権」を明確に付与することが必要です。この権利を制度的に保証することで、大きく変わると思います。これまでは自身の戸籍謄本等が取られているかいないかすら分からなかったのですが、情報公開条例等によって、一定の範囲は本人に分かるようになりました。しかし「誰が取ったか」は現在でも明らかにできません。「取られた人の個人情報」と「取った人の個人情報」のどちらが重いか、という問題ですが、大阪市では人権侵害の疑いのある場合は審議会にかけて明らかにできる場合があります。戸籍謄本等に関して自己情報コントロール権が付与されれば、調査する方も簡単に取れなくなり、相当な抑止力になるといえます。

今後の取り組み

現時点において、戸籍謄本等不正入手事件でもっとも重要なことは、全体の真相究明です。犯罪の捜査でも同じですが、人・モノ・金がどう動いているかを明らかにすることです。戸籍謄本等が取られたあと、どうなっているかが実は解明されていません。戸籍謄本等の流れを明らかにし、かつお金と人がどう動いているかを突き止めることが重要です。現状は、戸籍謄本等を役所に取りにきた末端の人間とその少し先の人物がわかっているだけで、その背後でどんな組織が、どう動いているのかが十分に明らかになっていません。とにかく徹底して真相究明を行うことが重要です。
もう一つは、多くの人の問題意識を喚起していくことです。「部落差別は今もあるか?」と訊かれて「ある」と答える人でないと差別をなくすことはできません。「そんなものは、もうないよ」という現状認識の甘い人は問題にとり組みません。知られない人権問題は解決しないのです。
さらには、利害に関わって、差別する側に回ればマイナスになるような社会システムが必要です。社会構造の変化やテクノロジーの高度化を背景に、人権問題もどんどん高度化・複雑化しています。それに対応していくには最も進んだ人権水準と柔軟な認識が必要になります。まずはどんな人権侵害があるのか「現実」を知り、問題意識を持つことが大切です。
同和行政の推進によって、同和地区の環境改善は大きく前進しました。しかし地域や世代によって差はあるにせよ、差別は歴然と存在しています。表面に出てくるのは氷山の一角にすぎません。そうした現実を厳しく受けとめ、戸籍謄本等の不正取得や「地名総鑑」を使った差別調査といった現実が存在することを多くの人々に知っていただき、問題意識の輪を広げていくことが重要です。遠回りのようですがそれが差別問題解決の根本だと思います。


【部落地名総鑑事件】
1975年、全国の被差別部落の地名を載せた図書「部落地名総鑑」が販売され、企業などが購入していた問題が発覚。これに関して法務省が調査を実施し8種類の地名総鑑を確認するとともに発行者や購入者に勧告。1989年には法務省から同事件の終結宣言が出されていたが、2005年・2006年、大阪市内において第9、第10の地名総鑑が発見された。

【戸籍謄本不正取得事件】
2004年、大阪府や兵庫県の行政書士らが戸籍謄本などを不正に取得し、調査業者に販売していたことが発覚。弁護士、行政書士など8つの資格職は「職務上請求書」によって個人の戸籍謄本等を取得できるが、これらの行政書士は調査業者の依頼を受け、「職務上請求書」を悪用して大量の戸籍謄本を取得・販売していたもの。調査業者は取得した戸籍と部落地名総鑑を照合することで差別身元調査を行っていたと見られる。

北口 末広(きたぐち すえひろ)さん
近畿大学 教授

1956年4月大阪市生まれ。京都大学大学院(法学研究科修士課程)修了。国際法・国際人権法を専攻、近畿大学教授として人権法・人権論を教えるほか、ニューメディア人権機構理事兼事務局長を務める。著書に『人権ブックレット55 人権社会のシステムを 身元調査の実態から』(解放出版社、1999年)、『変革の時代・人権システム創造のために』(解放出版社、2005年)など多数。
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